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2015年6月4日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第133号
『四者悟入(ししゃごにゅう)』
学校長 荒木 孝洋
県の高校総体・総文が終わった。毎年の光景だが、全国や九州大会の切符を手にして歓喜乱舞する生徒がいる一方で、目標に届かず悔し涙を流した生徒も多かっただろう。結果はともあれ、流した汗はすぐに乾くが、流した涙は一生の宝物になる、と確信する。全力を尽くした文徳生を褒めてやりたい。特に、3年生は高校生活最後のイベントが終焉し、いよいよ自らの進路実現に向けた新たな戦いが始まる。ボールをペンに握り替え、『夢実現』に向けて自らの腕を磨いて欲しい。
ところで、こんな笑い話がある。全身が痛いという男がいた。頭を触れば頭が痛い。腕を触れば腕が痛い。そう訴える男に向かって医者は言った。『あなたの身体はどこも悪くない。ただ指が折れているだけなんだ』。・・・結果が思い通りにならないと、ついつい、あそこが悪い、ここが悪いと、我々凡人は嘆くことしきりである。そんな悲劇の主人公気取りの自分を突き放して遠くから眺めれば、「どこも、誰も悪くない。ただ、あなたの腕が悪い。あなたの心が折れているだけだ」という医師の診断を受けることになるだろう。反省とは磨く腕を探す作業である。職種によって磨く腕は異なるが、我々教師は授業力という腕を磨かねばならない。医師は手術の腕前で、落語家は話術で、裁判官は順法精神で勝負するように、教師は授業で勝負をする仕事である。本校には、授業について、教師が実践しなければならない共通な努力目標がある。( )内はその効果。具体的には・・・
授業が整然としている(その先生が言うことだから間違いないはずと生徒は先生を信頼する)
授業に迫力がある(生活面での指導にも生徒が素直に耳を傾けるようになる)
授業が大きな声でなされる(生徒もある程度の声を出さざるを得ない)
授業の中で人権への十分な配慮がなされている(生徒の正しい人権感覚が身につく)
授業が分かりやすい(生徒は学校が楽しくなり欠席が減る)
授業が楽しい(学習意欲が高まり、もっと難しいことを学びたくなる)。
私は22才で教師になったが、最初に赴任した学校のN校長先生から次のような訓辞を戴いた。「荒木先生は数学の先生だから四捨五入は知っているでしょう。四捨五入のできる先生になって下さい」と。意味不明で頭をかしげていると、校長先生は黒板に『四者悟入』と書き次の話をされた。「教師は4つの道でプロになりなさい。その4つとは、学者(専門の知識を磨きなさい)、役者(教壇は舞台だ。生徒がわかる授業をしなさい)、易者(子どもの適性や能力を見極め将来の進路を拓いてやれる教師になりなさい)、医者(子どもは多種多様、心の悩みに気づく教師になりなさい)。これができて始めて悟りに入れる(教師として一人前になれる)」と。以来、ずーっとこの言葉を心に刻み精進してきたつもりだが、46年の教師生活を振り返ると、『難題』への答えは今も出ていない。死ぬまで『悟入』は難しそうだ。昔の生徒のことを思い出すと「スマナイ」と思うことばかりで忸怩たる気持ちである。N校長先生は数年前になく亡くなられたが、ご存命なら「まだまだ、腕の磨きかたが足りない」との診断を下されることだろう。
ところで、最近の矢継ぎ早な教育改革の提言に戸惑っている。小学校への英語導入、センター入試の改革、道徳教育の教科化、グローバル人材の育成、アクティブ・ラーニング、教員免許の国家試験化・・・。「総合的な学習の時間」もやっと根付いたのに、アクティブ・ラーニイングへの転換、「折れてもいない骨が折れている」と診断されるようなものだ。主幹教諭の新設は教科指導のエキスパートをスポイルするばかり。現場を知らない人たちの処方箋には疑問を感じる提言が多すぎる。課題が指摘されると「そうならないように努力します」ではすまないのが教育だ。国会では相変わらず、与野党の噛み合わない議論と非難・中傷合戦や居眠り、「日本は大丈夫かな?」と切なくなる。国家試験が必要なのは教員免許ではなく、政治免許ではなかろうか。その要件は、『専門的な知識』と『説明力』そして『日本の未来を占う想像力』『庶民の幸せを創造する企画力』の『四者』である。
2015年5月7日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第132号
『知的好奇心』
学校長 荒木 孝洋
文徳の4月は慌ただしい。入学式(4月9日)、新入生研修(4月13日〜4月15日)、体育大会(4月29日)と、新入生は息をつく暇もない。連休が開け、やっと落ち着いた文徳での新学期がスタートしたようだ。
ところで、「小人閑居して不善を為す」という言葉がある。つまらない人間はあまり暇だと、ろくな事はしないという意味である。言い得て妙、古人の洞察力には驚かされる。若い人たちにはピンとこないかもしれないが、そもそも、人生に於ける最大の敵は「退屈」である。人生とは「退屈」との戦いと言えなくもない。従って、生きること自体に「退屈」を感じ始めたら事態は深刻である。
『種の起源』を著したイギリスの博物学者ダーウィンは、青年期に動物学の研究員として軍艦ビーグル号に乗り組み、1831年からの5年間にわたる南米及び太平洋の調査航海に出た。その間の事情を書にしたのが『ビーグル号航海記』である。その中で、リオデジャネイロでの彼自身の体験について「この地方の豊穣な風土では、生物は到る所に充満していて、目を引くものに限りがなく、ほとんど歩くこともできない」と記している。つまり、ダーウィンは未知なる新大陸において、前に進むのも躊躇するほど興味深く感じられる事物に囲まれていたことになる。しかし、「その時」「その場所」には他にも多くの人がいたはずである。にもかかわらず、その瞬間を「至福のとき」と捉えることのできる人が存在する一方で、「退屈さ」以外に何も感じることができない人もいただろう。その落差はまさに「知的好奇心」の有無に由来する。少なくともダーウィンの辞書には「退屈」の二文字はなかったであろう。
歴史を振り返ると、新しい発明や発見した人、時代の変革をリードしてきた人たちは皆、志が高く好奇心旺盛な人ばかりだ。考えが「前向き」で行動が「ひたむき」である。電球を発明したエジソンは幼少の頃から好奇心旺盛で、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり、英語の授業中にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「Why?(なぜ?)」を連発して、先生を困らせていたという。また、明治維新の指導者としてよく知られている吉田松陰は、西洋の先進文明に心を打たれ、盗んだ小舟で外国船に乗り込み渡航を試みたり、政府の理不尽な条約締結に反対し、弟子が止めるのもかまわず討幕を企てるなど波瀾万丈の人生を歩んでいる。いずれも失敗し、罪を問われ投獄されたが、開国という高い志と固い決意があったから、獄中生活も勉学の好機として驚くほど多くの本を読んだり、原稿を書くなど猛勉強している。萩にある松下村塾は松陰が主宰した小さな私塾であったが、身分の分け隔てなく塾生を受け入れ、明治維新を担った高杉晋作や伊藤博文などの多くの人材を世に送り出した。
いつの時代も、人は、汚れることを嫌い、格好悪い姿を世間に晒すことをいやがるものだが、世間はそれほど一人の人間を注視などしていない。しかし、頑張っている若者への眼差しは結構温かく、泥だらけになっても努力を続けている姿を美しいと賞賛し心から応援してくれるものだ。迷い・悩むときは『佇み・考える時間』も必要だが、時間をバネにして飛び立たなくては前に進めない。成長期の若者には、是非ともいろいろなものに興味関心を持ってチャレンジしていただきたい。自ら決断し、まず一歩を踏み出していただきたい。遠慮や尻込みは禁物だ。まして、「食べもせずに」「聴きもせずに」「読みもせずに」そして「登りもせずに」、その食材や音楽、書物、山の悪口を言ったり批判することは慎まなければならない。最悪なのは食わず嫌いである。時代や価値観がどんなに変わっても常にチャレンジャーであって欲しい。キーワードは『知的好奇心」である。
2015年4月15日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第131号
『学校の異変』
学校長 荒木 孝洋
《その1》
ある雑誌で『本当にあった話』だとして紹介されていたこと、次のような記事である。ある小学校で、一部の児童が宿題をやってこなかったので、担任の先生が理由を尋ねたところ、児童曰く、「宿題が出ているのを知りませんでした」それをたしなめようとしたら、児童「大人も知りませんでしたと言ったら罪にならないでしょう」・・・担任は二の句を告げられなかったという。テレビ番組で報道されている「知りませんでした」で許される風潮を保護者がおもしろおかしく話題にしていたのを聞いて、子どもなりに懸命に考えた世渡りの術だろう。大人はもっとしっかりしないと・・・という話である。国民の生命財産を守る義務があるからと、議員さんたちは集団的自衛権についてはケンケンガクガクの議論をしているが、未来を担う子どもたちの心に生じている危機的新事態について語る議員は見かけない。政治献金規制法がザルだといういうことをいいことに、ザル目から漏れ逃れて居直った政治家の皆さんは、この子たちのいいわけに何とコメントするのだろうか?
《その2》
私は賞味期限や消費期限をほとんど見ない。腐っていれば捨てるし、そうでなければ食べる。しかし、天下の正論は期限の切れた食べ物はただちに廃棄せよのようだ。間違って店頭販売でもすれば、その会社はマスコミからよってたかってバッシングにあう。学校では賞味期限と消費期限の違いは教えるが・・・捨ててしまえとは教えていない。静岡県のある小学校で起きた事件の新聞報道を思い出した。学校給食の残飯がごっそりと捨てられるのを見た担任の先生が、クラス全員に二粒ずつ食べさせた。先生はこれこそ生きた教材だと思って「世界にはお米の一粒も食べられず、死んでいく子どもがたくさんいるんだよ」というようなことを話して、先生も一粒多い三粒食べて見せたそうだ。このことを子どもから聞いた母親たちは許さなかった。PTA総会が開かれ、この先生は母親たちから吊し上げられ、泣きべその様相で謝った、という記事である。コメを大切にするのは当たり前の行為、マスコミも事実を報道するだけでなく「今どき珍しい感心な先生がいる」といったコメントぐらい書いてもおかしくない気がする。
《その3》
多くの職業には一定期間にわたる訓練が不可欠とされる。すし職人は『飯炊き3年、握り8年』の修行が必要だと言われ、バスの運転手なら、まず大型2種免許取得に運転歴が問われ、取得しても一定の見習い期間が設けられる。医師にはインターン制度が、弁護士にも司法修習制度があり、資格があっても単独ですぐには治療行為や相談活動には当たれない。学校もしかり、学校では、価値観や能力の違う多様な子どもを扱うから常に研修が求められ、免許を持っているだけでは一人前に扱ってもらえない。制度面でも10年に1回は免許状を更新しないと教員資格が剥奪される。ところが、近年、訓練なしでも教員になれる制度ができた。いわゆる民間人校長や教頭は訓練どころか教員免許状さえ必要とされず、全く異なる職種から即座に任命される。訓練を欠いても一人前扱いされる職業は政治家くらいと思っていたが、教育界も同じになったようだ。するとどうなるか。それを欠いたまま任用されると、自らの権限を濫用する人物が教育に紛れ込んでしまう危険性がある。関西のある地域では、民間人校長の何人かがセクハラで退職し、民間人教育長はパワハラ問題で辞職した。学校教育がタコツボ化しないように、異業種から教育界に人材を求める制度には賛成であるが、どんな制度でも、どんな職種でも一定の訓練期間は必要である。