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2016年1月22日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第139号
『入学試験』
学校長 荒木 孝洋
暦の上では大寒、一年で一番寒い季節を迎えた。各地で大雪の被害も出ているようだが、学校はこの時期が一番忙しい。センター試験を終え大学入試を迎える3年生、新入生を迎える高校入試とてんてこ舞いだ。高校入試の準備をする傍ら国公立受験生の指導、昼食をとる時間もままならない忙しさだ。私学では1月26日に専願生と奨学生の入試が一斉に実施される。文徳高校では1,669名の受験生を迎える。緊張した受験生が安心して受験できるように受験場の点検・整備もほぼ終了した。机・椅子・カーテンの不備はないか?放送設備は大丈夫か?電灯やエアコンは正常か?・・・。
ところで、試験で一番気を遣うのが入試問題の作成と採点である。答案は受験生と学校を結ぶ唯一の接点だからミスが許されない。先生たちは年間を通して作問に悩まされる。公平を期すためにオリジナルな問題を作成する。中学校の教科書や問題集にも目を通しながら同一問題を避け、難度が適切であるかどうかを何回も何回も検討し調整する。目標平均点も重要な指標である。また、用語の統一にも気を遣う。「・・・せよ」なのか「・・・しなさい」なのか、誤解を招く言葉遣いはないか?、余白や回答欄の大きさは適切か?・・・。しかも、同じ問題を何度も見直していると易しく見えてしまうので難度が上がってしまう。それを避けるために問題作成と校正は担当者を分けて行う。そして、試験が終わりホッとする間もなく次は採点である。得点は合否判定の最重要資料であるから神経をすり減らす作業が続く。答案の名前を厳封し、受験生の名前が見えないようにして採点する。しかも、誤採点を防ぐために、一枚の答案を複数の人間が一見・二見・三見と複数回に亘りチェックする。だから、一枚の答案が得点として集計されるまでに6人の目に触れることになる。各教科10名で採点するとして、二日間で一人平均約1000枚の答案を扱うことになり心身ともにクタクタになる。そして、採点が終わると5教科(国・数・英・社・理)の合計点を算出する、コンピュータに得点を入力しそれをプリントアウトし合否判定資料が出来上がる。いずれの作業も、恣意的感情が入ったり秘密が漏洩しないようにしなければならないから神経をすり減らす過酷な作業である。2月1日が合格発表、当分緊張した日が続くことになりそうだ。
一方、センター試験はマークシート方式、採点は情報機器による処理だから正確でスピードも速く、羨ましい限りだ。しかし、新たに導入が予定されている大学入学希望者評価テストはマークシート方式に加えて記述式が導入されるから、採点はそう簡単ではない。元来、マークシートは単一解答を想定しているのに対し、記述式は多様な解答を許容する方式だから、整合性のある解答基準の作成が難しく、公平さを担保するのは至難の業だ。現在でも、各大学で記述式の個別試験を実施しているが、枚数が少ないから対応できているようだが、50万人もの答案を、複数の人間で手分けして採点するとなると公平性はいよいよ怪しくなる。大学選抜試験は国家試験のように基準点をクリアーすれば合格となる試験とは異なり、1点刻みで合否が別れる試験である。だから、採点基準が曖昧な記述式はら新テストには馴染まない。
グローバル化していく社会で、創造力や想像力を持った人材の育成が求められているが、いずれも基礎知識を有することを前提とする。しかし、すべての人間がセオリー通りに育たないのも現実。野菜や果物に早生と晩生があるように、人にも早生と晩生がある。高校生でも早い時期から力を発揮する生徒もいるが、大半は基礎知識の習得で手一杯である。早咲きは放って置いても勝手に育つが、遅咲きに肥料をやり過ぎると枯れてしまう。遅咲き型は、開花が遅いだけで力がないわけではない。鍛えすぎて、求めすぎて隠れた才能を潰しては元も子もない。高校までは基礎をジックリ学ばせ、大学教育の中で「生きる力」を育成しても手遅れにはならないと思う。
2015年12月7日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第138号
『ウサギとカメ』
学校長 荒木 孝洋
次に、なぜ私のように必ずしも明確な目標や目的を持っている必要がないと考えたのか? この二つの『なぜ?』という問いのどちらにも答を見つけて欲しいのです、といった話です。
是か非か?」といった二者択一の選択を迫る番組が闊歩し、人間的曖昧さを許容しない番組が増えています。相手を罵倒したり、「そうか」「そうなの」と頷くばかりの番組はインパクトはあるが残像感がありません。人は誰でもそうですが、同じ問いにも、時には、YESかNOかと揺れ動いたり曖昧なまま結論が出ないことがあります。子どももしかりです。特に、価値意識を形作る若いときには、悪さをしても「親は許さないが、誰かが、どこかで、自立の模索として許している」そういう関係が社会の中には必要です。二者択一の思考は、賛否の片方を排除する価値意識しか育ちません。ウサギにはウサギの、カメにはカメの言い分があるはずです。前提を疑い、二者択一を疑ったうえで、自ら問いを設定し、自ら答えを提案できる人になって欲しいと思っています。その為には「人間の持つ曖昧さを許容する心の広さを持つこと」「正解を教えてもらおうという心の癖を捨て、自らの頭で考える習慣を持つこと」が大切だと考えます。
2015年11月24日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第137号
『名著を紐解く』
学校長 荒木 孝洋
“人間は『人から学ぶ』『本から学ぶ』『旅から学ぶ』以外に学ぶ方法を持たない動物である”という言葉を聞いたことがある。「なるほど」と合点である。私自身も振り返ると、教師になったのは凄い先生と出会って「こんな人生を歩みたい」と思ったのがきっかけだし、タイの学校を訪問して子どもたちの真剣な眼差しに「日本人は大丈夫かな?」っとドキッとしたこともある。しかし、人や旅よりも『本から学ぶ』機会が一番多かったような気がする。一生の間に会える人物は限られているし、旅もしばしば出来るわけではない。アメリカに渡ってもオバマ大統領に会える確率は限りなくゼロに近いし、すでに亡くなっている歴史上の人物に会うことは不可能である。しかし、読書は違う。旅行に比べれば本の値段は安価で、何時でも何処でも読める。本屋に行けば読みたい本が即座に購入でき、図書館で借りることもできる。しかも、読めば読むほど思考が広がり考えが深まる。同じ文章でも読み返すたびに自分の至らなさに気づかさせられることもシバシバ。是非、若い人たちにはたくさんの本を読んで欲しいと願っている。今年のノーベル物理学賞を受賞した東京大宇宙線研究所長の梶田隆章さんは、子どものころから大の本好きだったそうで、母親が「目が悪くなるから、少し休んだら」と注意しても、隠れて読んでいたそうだ。
ところが、現実は活字離れが深刻になっている。街を歩いている人も、駅の待合室も、バスの中もスマホを見つめる人ばかり。本を読んでいる人をほとんど見かけない。全国大学生協連の調査では、大学生の40.5%が読書にあてる時間はゼロと答えている。しかも、ゼロと答えた学生のスマートフォン利用時間は1日平均3時間と最も長いそうだ。これは若者に限った現象ではない。文化庁の国語世論調査によると、「一ヶ月に全く本を読まない人」が47.5%、「読書量が減っている」という人が65.1%。もちろん、スマホで本も読めるだろうが、日本人全体で読書離れが加速しているようだ。その理由は「仕事や勉強が忙しく時間がない」に次いで、「視力などの健康上の問題」が2番目に多かったそうだ。読書にはある程度の時間的余裕と体力が必要ということであり、やはり、体力・気力とも充実している若いときこそ多くの本が読める絶好のチャンスだということになる。
一方、スマホの普及で情報伝達が速くなり、利便性は大きく向上したが、失うものも多い気がする。そのひとつが、結論や答を急ぐことだ。複雑な要素が絡んで無数の選択肢があるはずの難題も、「YESかNOか」「是か非か」といった二者択一の選択を求めたり、誰かが作った結論に付和雷同する傾向が強まっている気がする。確かに、結論を先行させれば時間や労力は省けるだろうが、思考はそこで停止し、他の意見の存在にも気づかず、他者への寛容の心も生まれにくい。グローバル化した現代では、情報に素早くアクセスしたり、それを処理する能力が求められるのは仕方がないにしても、スマホやネットの断片的な情報は体系的に物事を理解したり、大きな文脈で考えたりするのには向いていない。結論が明白のように思える案件でも、違う考え方や立場があり、より正しい結論に達するためには、広く判断材料を集めたり、自分の脳でジックリ考える時間を持つことがもっとも大切だ。
まもなく、選挙年令が18才に引き下げられ、若者の意見が政治にも反映される社会が到来する。広い視野と豊かな想像力を持って未来を切り拓いて欲しい。そのためには訓練がいる。運動神経がよほど優れていたとしても、全く練習しないでテニスや水泳が上手になるはずがない。同じように、人間の脳も習練を積まなければ賢くはならない。スポーツも芸事も、名人に教えを受ければ上達が早い。同様に思考力を高めるには、古今東西の名著を紐解くことが一番であろう。
2015年10月28日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第136号
『真逆の教育改革(続々)〜眩い星空〜』
学校長 荒木 孝洋
朝夕の寒暖の差は大きいが、さわやかな秋空が続き、夜には遠い彼方の星空に身も心も癒される。我々は、山にいても、海辺にいても、また、都会にいても、目に映る星座の姿に大きな違いを感じない。ところが、我々が立っている足元は草地であったり、砂浜であったり、アスファルトだったりと、条件がさまざまに異なる。地面の状態が異なれば、それぞれに適した靴や歩き方がある。砂地に下駄では歩きにくいし、山道をサンダルで歩けば危険である。アスファルトを裸足で歩くわけにはいかない。もちろん、大人と子供では歩幅も違うし、登りと下りでは足に掛かる負荷も場所が異なる。
このことは、学校経営にも当てはまる。学校が、心理的にも地理的にも遠くにある国の方針や先進事例ばかりに目を奪われてしまうと、学校が置かれている地域や実情をつい見過ごし、大事な問題を見逃しかねない。例えば、学力やスポーツ競技での入賞数などが取り上げられるとき、学校や教師の努力だけが評価されがちだが、そもそも成果の背景には地域性とか家庭環境、本人の能力や意欲などのさまざまな要素がある。教育の成果は教師の努力もさることながら、子供の努力、保護者や住民の努力などの総合力でしかない。学力が高いとされる自治体や学校では、子供の家庭学習時間が長く、人とのつながりも濃いと言われている。そんな先進モデル校には遠方からの視察者も多いが、残念ながら、訪れた視察者は授業方法ばかりに目を奪われ、自校で同じことを実践しても改善に繋がらないことが多い。置かれた地域や学校の実態を聴聞したり観察するのも視察の大事な視点なのに・・・空ばかり見てると転んでしまう。
そもそも、同じことを同じ方法で行っても差がつくのが教育。脚本家の山田太一さんは『夕暮れの時間に』という著書の中で、「知力・体力とも人それぞれに限界がある。そうした宿命を背負っているからこそ人生は味わい深い。全員が同じラインから一斉に駆けだすような今の競争社会は、ちょっと信じられないくらい非現実的で、あまりに無残です」と述べておられる。最近の教育改革もしかり。教育再生会議から矢継ぎ早に改革が提言されるが、教育はものづくりと違って対象は生きものの生徒だから、新しい施策が提言されても『よーいドン』とは進められないのが学校の足下。地域によってその対応には温度差があり一律に一斉に全てが実施できることばかりではない。例えば、児童生徒が数人しかいない山村での英語教育、指導者を捜すのも難題だし、意欲ある生徒だったとしても、外国人が日常的に闊歩している大都会と同じようにオーラルコミュニケーション能力が高まるとは思えない。元来、生きていくための基礎・基本をジックリ学ぶのが初等・中等教育。学力が高いと言われるフィンランドでは、教育の専門家で構成されるプロ集団が時間をかけてカリキュラムを検討し、その運用は地方に任せていると聞く。「今の子供はなっていない。ゆとり教育のせいだ。詰め込み教育で教育再生を」といった具合に、場当たり的な教育行政の日本とは随分と違うようだ。
私の48年の教職経験を通してのことだが・・・一定の教育成果を上げている学校の共通点は、自前の教育を行っている学校、つまり、自校が立つ足元を確実に見つめ、実態に即した教育を行っているということだ。足下に適した靴と歩き方で前進し、それがしっかりと地元にフィットしていれば、その成果は持続する。空から見ると、カメのように遅々たる前進にしか見えないかもしれないが、こんな教育活動の展開こそあるべき学校経営の要諦だと確信している。星空に映し出される国の指針は東京一極集中で眩いばかり。教育格差をなくすのが文科省の役割。煽るばかりの提言では地方も日本丸も沈んでしまう。競争は両刃の剣、「日本丸、そんなに急いでどこへ行く?」。地方と都会のタイムラグを許容する改革こそ「地方創生」のキーワードだと考える。
2015年10月14日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第135号
『〜続〜真逆の教育改革』
学校長 荒木 孝洋
開校して55年目を迎えましたが、世間の人が「文徳高校をどんなイメージで見ておられるのか?」時折気にしながら日々の教育活動を振り返っています。文徳高校には、難関大学を目指して学力向上に努める生徒がいる一方で、運動能力を鍛えて全国大会で優勝を目指す生徒もいます。ごく普通に青春を思う存分楽しみたい生徒がいてもよいと思っています。そんな意味で本校は総合高校です。校訓の「体・徳・智を磨く」を具現化するために『あ・た・まを磨く』という標語を掲げています。『あ』は明るい挨拶ができる・温かい言葉がある。『た』は確かな学力と逞しい身体を育む。『ま』は真っ直ぐな心で前向きに行動する、ということです。自己の能力を磨き、自分の都合だけでものごとを判断しないよう学びを極め、磨いた能力を世のために役立てる。そのためにも多種多様な個性を備えた生徒がいたほうが、学びは進化すると考えています。
ところで、社会を支える人材を送り出すことが我々教職員の役割です。そこで生徒たちには「情を磨く」よう教えています。相手の気持ちを的確に掴み、会話の余白を読み取れる能力は、社会で生きていくために最も必要とされる資質だと思うからです。そのために、本校では、名称は一定していませんが、平均すると月に一回、講話を聴いたり文化的行事をとりいれ、その都度必ず感想文を書きます。授業や部活動などの日常から離れ、自分自身や身の回りを振り返る習慣を養うためです。また、生徒指導では形を大切にし、指導の三原則として『挨拶』『掃除の徹底』『時間を守る』を掲げています。あいさつのできない子に情を磨く話は通じません。掃除をしない子に社会を支えてくれと言っても伝わらないでしょう。時間を守れない子が相手を大切にしているとは思えません。能力や好き嫌いの問題ではなく、すべての生徒に身につけてもらいたい大切な習慣だと思っています。さらに、学習面で身につけるべき形は『自習力』だと思います。どんなことに対しても、まず自分の頭で考える。そんな姿勢を高校時代に自分のものにして欲しいと思っています。本校では『進度より深度』を指導指針として授業を行っています。「YESかNOかで終わり」「正解したら終わり」という安易な道を選ばず、異なる意見や主張であっても、相手の主張に耳を傾け、その意見を自らの頭で咀嚼し、その後、自らの答や別解を提案できる人になって欲しいと思っています。
因みに、我々が担うのは中等教育です。人生の骨格を育むべき重要な時期に、グローバル化やキャリア教育を持ち込む昨今の風潮を危惧しています。こうした動きの背景には、教育に対する産業界、経済界からの強い要請が透けて見えます。しかしながら、中等教育の場では、こうした外野からの声には、あえて耳を塞ぐべきだと考えます。例えば、英語教育、ネイティブに比較して中途半端な英語しか話せない若者が、底の浅い学びしか経験しないとすれば、日本人の知的生産力は確実に落ちていくでしょう。気づいたときは手遅れです。中等教育で必要なのは、実用性一辺倒の学びなどではありません。求められるのは、長い人生をがっちり支える骨太の知力・学力・人間力を養うことです。英語力もITスキルも長けているに越したことはないが、高校教育の柱ではありません。むしろ、基礎基本の知識や『自習力』を涵養し、判断力や決断力・想像力を養うことが肝要だと考えます。
一方、大学の状況も危機的です。「一億総活躍社会」とはほど遠い提言が目白押し、学費は上がり、地方の大学では定員減ラッシュ、貧乏人は益々学問から遠ざかる。しかも、大学改革は偏った提言が多く、例えば、産学連携のもと企業論理が優先し、哲学・宗教学・倫理学などの人文科学系が軒並みに軽視され国の支援は細る一方。また、日本では哲学が廃れる一方なのに、フランスやイギリスではもっとも優秀な生徒が哲学に進むと聞く。本来、国の根幹を支える礎となるのはこのような人材ではないでしょうか。学生は理系か文系かに軸足を置くとしても、文理を問わず広く学べるのが大学の優位性。資格取得や実学優先の学習なら専門学校で十分。大学は世間から超然とした存在であって欲しい。「就職や資格と無縁の学部・学科の学生が威張れる大学こそ一流大学だ」と世間が認識するようになれば日本丸も安泰でしょう。拙速な大学改革を憂うのは私だけではなさそうです。