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2016年11月17日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第148号
『積もった雪』
学校長 荒木 孝洋
読書の秋、どこの本屋にも、入り口付近にはカラフルな表紙やどぎついタイトルの本がずらりと並んでいる。しかも、時の話題となっている素材も多く、「豊洲移転の全貌」とか「今だから言える東京五輪の裏話」など、マスコミで話題になっていることが一週間もすると冊子として本屋に並ぶ。しかし、地味な短歌や俳句や詩などの冊子は奥の棚にひっそりと置かれていることが多く、なかなかお目にかかれない。しかし、読んでみると、短い文の中に感動する内容がたくさん含まれておりハッとすることがある。詩をひとつ紹介します。山口県生まれの詩人金子みすずさんの作品『積もった雪』という詩です。
上の雪 寒かろな。 冷たい月がさしていて
下の雪 重かろな。 何百人ものせていて
中の雪 さみしかろうな。 空も地面もみえないで
私たちは降り積もった雪を見たら、寒いとか、きれいだとか、白いなあと感じます。しかし、金子みすずは、降り積もっている雪を見て上の雪は寒かろうなと感じ、下の雪は重かろうなと感じ、中の雪はさみしかろうなと感じています。彼女は小さいころから、読書好きであり、勉強好きでもあったそうです。その彼女がいちばん嫌いだったのは人の悪口を言ったり、人の悪口を聞くことだったそうです。このように心優しい彼女ですから、『積もった雪』のような詩が出来上がったのだと思います。中の雪や下の雪は私たちの目には見えません。しかし、上の雪とともにそれぞれが重なり合ってそれぞれを支え合っていることを詠っているようです。金子みすずの詩をもうひとつ紹介します。題は『土』です。
こッつん こッつん ぶたれる土は よい畑になって よい麦生むよ。
朝から晩まで ふまれる土は よい道になって 車を通すよ。
ぶたれぬ土は ふまれぬ土は いらない土か。
いえいえそれは 名のない草の お宿をするよ。
人にだけでなく土への優しいいたわりの心情が伝わってきます。そして、ふたつの詩は、人間社会にも置き換えられるのではないかと思います。私たちは生活するうえでは、多くの人の協力や助けが必要です。その人その人によって、立場も役割も違っていますが、それぞれが力いっぱい生き抜いています。そして、ひとり一人に個性があり、すべてがかけがえのない命です。学校もそうです。もう一度ゆっくりと観察してみて下さい。クラスで生活している級友は背丈も性格も皆違いますが、すべてがなんらかの形で繋がりをもって生活しています。それは、目には見えないけれども、大切な役割や立場があるからです。お互いがかけがえのない存在であるし、大切な存在であることを忘れてはいけません。『積もった雪』はお互いが助け合ったり支え合ったりして、生活していることを私たちに改めて教えてくれるし、『土』は個性と命の大切さを教えてくれます。
最近は、新聞や雑誌からだけでなく、インターネットを通して便利で役に立つ情報を瞬時に獲得することができますが、時には、単行本や文庫本、詩や俳句に目を通しながらユッタリとした時間を過ごすのも悪くないものです。読書は活字を通しての人と人との出会いですが、自分との対話でもあります。活字で表されたひとつひとつの事象を自らの頭で咀嚼することで世界が広がります。一日一ページでも短い一行でもよい、是非活字に触れる時間を持って欲しいと思います。「縁尋奇妙・多逢勝因」という言葉があります。「良い縁がさらに良い縁を生む、不思議なものだ。いい人(本)に交わっていると良い結果に恵まれる」という意味です。一冊の本との出会いで人生までもが変わるかもしれません。
2016年10月26日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第147号
『思いの蓋を開けてみる』
学校長 荒木 孝洋
自分を変えてみようと思うのは若い時ばかりと思っていたが、そうでもない。歳がいくつになっても、時々新しいことに挑戦したいと思うことがある。心に響いた本に出会った時や、映画で感動した時、凄い人に出会ったときなど、そういう思いを持つ瞬間がある。でも、時間が経つと、持続できることとそうでないこととに別れてくる。その違いはどうも思いの蓋が取れているかどうかにあるようだ。「思」という漢字の語源は辞典によると、頭(田)と心の組み合わせだそうだが、「思」から横線と縦線2本からなる蓋(冂)をとると「志」という字が表れる。「思」と「志」の意味は、似てはいるが向かう方向に違いがある気がする。「思」いは、例えば思い出や思い込みなどのように、自分に向けられるものだが、「志」はある目標の達成を目指すという、外に向けられた強い覚悟が含まれている気がする。「勉強して頑張って、世のため人のために役立つ人になろう」という高い志を持って入学した生徒諸君も、日々の授業や部活動に追われていると、気付かぬうちに志に蓋がかぶさって内向きになってしまう。「忙しい」とか「時間が足りない」「キツイ」「面倒くさい」など自分中心に考えるようになるが、内向きでは前に進めない。では、志に蓋が閉まってしまわないようにするにはどうしたらよいのだろうか。キーワードは「凡事徹底」だと思う。
6年前のことだが、沖縄の興南高校の野球部が春夏連覇という偉業を成し遂げて話題になった。監督の我喜屋先生は、その頃のことを次のように述懐されている。着任早々、生徒に徹底させたのは練習だけではなかった。就任したころ、寮生活する生徒は寝ない、起きられない、食べられない、整理整頓できない、挨拶ができないという状態だった。人としての根っこの部分がしかりしていれば野球はうまくなるという信念のもと、「時間厳守、整理整頓、挨拶といった基本を徹底して指導した」と話されている。椅子は両手で出し入れして音をたてず、食器の片付けも音を立てないといった、大人ですらできていない人が多い習慣を身につけさせたのです。もちろん、野球の練習も相当ハードだったと思うが、就任して3年後の2010年には見事春夏連覇を達成されました。似たような話を熊本出身の柔道家山下泰裕さんからも聞いたことがある。世界選手権に向けた合宿中の出来事、大先輩の神永昭夫さんがトイレのスリッパを並べている姿を見て、「これが神永選手の強さの秘訣だ」と思った山下選手は、「稽古だけでは神永選手には勝てない。心と感性にも筋トレが必要だ。まずは、立ち振る舞いを正すこと」と決意した。そして、その年行われた世界選手権で見事優勝しました。想像するに、興南高校野球部も山下選手も技量を磨くためのトレーニングに加えて、日常生活の中で心の筋トレを実行し習慣化したことで、技量が昇華し頂点を極めたのではないかと思う。
ところで、3年生は受験本番、11月になると推薦入試が始まり、1月にはセンター試験を迎える。毎年のことだが、この時期になると成績が急激に伸びてくる生徒がいる。彼や彼女たちに共通することは基礎基本をしっかりと身につけていること、受験に関係ない教科の学習にも手を抜かないことだ。加えて、素直で欠席が少なく掃除も丁寧にするし、整理整頓が上手なことも共通点だ。こんな言葉を聞いたことがある。「心を磨くには、とりあえず、目の前に見える物を磨ききれいにすること。心は、いつも見ているものや、いつも聞こえてくる言葉や喋っている言葉に似てくる。誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続ける事で、平凡の中から生まれる大きな非凡を知ることができる」と。人が見ていようがそうでなかろうが、続けてやるのが凡事徹底。逃げてばかりいると「思」いの蓋は閉じたまま、そのうち魂(心)が消えて残った頭(田)の中には後悔という雑草が生い茂るだけだ。
2016年10月7日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第146号
『砂上の楼閣』
学校長 荒木 孝洋
つい先日のこと、近所の公園に行くと、5・6人の小学生が輪になって「ワア、ワア」と騒いでいる。覗き込むと、どの子も指をピコピコと動かしゲームに熱中している。「今は、子どもの遊びはこれか」と言葉を失う。昔なら想像できないような光景が日常化している。セミをとるでもなし、鬼ごっこするでもなし・・・電子機器の広がりに困惑。「小学生にスマホもパソコンもゲームも不用だ、戸外を走り回れ」と叫びたくなる。この現象は、子どもの世界だけではない。科学技術の急速な進歩によって大人の世界も様変わりした。例えば、プレゼンテーションソフトやプロジェクターは講演や説明会で必須のものとなっている。画像を通してプレゼンテーションできるから、説明しやすく時間も短縮できて効率的だ。準備に時間が必要だが、それをコピーして配布できるから資料を作るのと変わらない。しかも、聞く人にとっても見やすく分かりやすい。
しかし、こんな便利な機器が開発されているのに、学校教育への普及は進んでいない。「授業でなぜ使わないのか?」不思議に思われるかもしれないが、理由は、教師が教育方法の改善や教育機器の利用を苦にしているからではない。一般に講演会などで使われる場合は提示される情報はその段階で完結しているが、学校教育の場合は違う。明日の授業は今日の学習の上に展開する石垣を積むような作業である。全ての生徒にその時々の学習内容を理解させ、知識を確実に定着させなければならない。ビデオを巻き戻すような復習もシバシバ。時には個人指導も必要になる。パソコンで文章を作るようになり「漢字は読めても書く自信がない」という話をよく聞くが、利便さの裏には落とし穴がある。教育機器を使うと説明の能率は上がるが、その分、手作業が減り定着率はむしろ低下する。
佐賀県武雄市では全国に先駆けて、小中学生全員にipadを配付し、自宅学習を前提とした反転学習を開始した。子どもの8割は「楽しい」と感想を述べているが、小学5年生の算数の学力テストの成績は、実施前と比較してもほとんど差がないそうだ。試行されて間もないから断言はできないが、動画は一時的な記憶には残っても、知識の蓄積には繋がりにくいようだ。自分で想像を働かせてノートを作り、手に豆ができるほど書きまくり学習をする、この繰り返しが、むしろ、大切な気がする。授業でグラフィカルな動画を見せるのは効果的だが、知識の定着との両立はそう簡単ではない。私が教師になった50年前にも同じ課題にぶつかっている。当時、オーバーヘッドプロジェクターが登場し、黒板なしでも授業ができる画期的な教具としてもてはやされたが、しばらくすると消滅した。なぜ?、結論は実に平凡だった。「知識は見ることや聞くことよりも、読み・書きによって定着する」ということだった。
子どもたちは新しい知識や情報を入手し、それを咀嚼し自分のものにするまでには時間がかかる。繰り返し繰り返しの試行錯誤の中で知識は定着していく。「反復練習や反復書写といった単純な作業は考える力を育まない」といった主張の教育論もあるが、江戸時代の寺子屋では、読み・書き・計算を繰り返し、明治維新を担った若者たちは『四書・五経』を暗誦している。意味不明の文章でも10回も読めば憶えもするし、時間をかけてジックリ学ぶことで疑問や文中に隠された奥深い意味も理解できるようになる。悪戦苦闘のアクティブな一人芝居を通した学びから自分の意見や感想も湧いてくるに違いない。他人の意見はその後で聞けばよい。最初から人の意見を聞くだけ、あるいは、無定見の思いつきを喋るだけの『アクティブ・ラーニング』はメダカの学校だ。電子機器や欧米の教育方法論を推奨する議論はスマートで華やかだが、それに偏るのは危険である。『読み・書く』の教育活動は『見る・聞く』に比べるとまどろっこしい学びだが、手書きや反復練習などの泥臭い教育実践を軽視していると、学校教育は砂上の楼閣になってしまう。
2016年9月26日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第145号
『ロボットは万能か?』
学校長 荒木 孝洋
台風16号接近、子どもの安全が最優先と始業を2時間遅らせたが、進路がそれてホッとした。しかし、台風が通過した鹿児島や宮崎方面では甚大な被害が出ているようで、台風銀座と言われている九州人としては人ごととして済ませられない。最近は台風の進路予測もGPSにより精度が高くなり降雨量や風速まで刻々と伝えられ、天気予報も様変わりした。特に災害予報については、熊本地震以降心身ともに過度に反応してしまう。
ところで、GPSだけでなく文明の利器の広がりは想像を絶する速さで進展している。スマホ、デジカメ、エアコン、ロボット掃除機、ゲームポケモンなど、世界は人工知能の時代に突入し、与えられた命令のもとに制御されている人工知能により私たちの生活は便利で快適になる一方だ。ポイントはAI(人工知能)である。コンピュータの計算速度が飛躍的に向上したことにより、人間に近い知的な処理がスムーズに行われるようになった。その結果、一定の形式を持つ業務(仕事)はAIで代行できるようになり就業構造がガラリと変わってしまいそうだ。見渡すと、50年前はなかったものが家の中にもゴロゴロ。テレビ、携帯、炊飯器、ガス。今では、エアコンなしの車を探すのも難しい。福島では、原子力発電所の事故処理の一部をロボットが担い、熊本地震では、壁面が崩落した57号線の道路復旧が、自動運転のダンプやショベルカーで作業が進められるなど、人間にとって大きなリスクのある活動に対しても極めて便利な文明の利器となっている。また、GPSとセンサーやカメラ映像解析技術を搭載した自動車は、運転時に人間が行っている知的判断をプログラム化し、人工知能による自動運転も実用化されている。また、佐世保のホテル「変なホテル」(名前も変だが)ではロボットが受付や部屋の案内までするそうだ。
しかし、人工知能を搭載したロボットは生活に利便さをもたらすだけではない。使い方を誤ると人を殺傷し物を破壊する兵器にもなってしまう恐れがある。すでに、米国は、アフガニスタンなどで「対テロ戦争」に遠隔操作の無人機(ドローン)を投入している。また、イスラエル軍は自動運転の軍用車を実戦配備し始めたとの報道もあるし、同様の兵器を米国、中国、ロシアなど少なくとも6カ国に開発能力があると言われている。本来、人は人を殺すことへの心理的抵抗があるが、何の痛みもなく敵を殺傷できるようになれば、戦闘行為に歯止めがきかなくなる。人を殺傷しても、現場からは遠い操縦室では被害者の苦しみも恐怖も感じないだろうし、攻撃の決断まで機械に委ねることになれば、戦争を現実感のないゲームにしてしまう恐れがある。人工知能を搭載した災害救助ロボットも自動運転の自動車も戦車もドローンも仕組みは同じである。使用目的を誤ればとんでもない事態に突入する。兵器も救援道具も開発には境界線がないだけに人類は新たな難題に向かい合うことになる。
すでに報道されていることだが、我が国はこれからさらに少子高齢化が進み、労働人口は減少し、税収も減っていく。ロボットや人工知能の活用は、このこととも無縁ではない。新しいテクノロジーを上手に活用し、人間がより人間らしい仕事に従事するとなると、子どもたちはテクノロジーを的確に用いる力を身につけることが求められる。新しい指導要領には、新たに「プログラミング教育」が加わり学校教育の範囲が広がる。コンピュータがどんな仕組みで動き、何ができ、何が苦手なのかを教えるだけでなく、「コンピュータをどう使っていくことが、より人間らしく生きていくことに繋がるのか」を教えることが肝要である。小さい頃、「道具に頼るな、手足を動かせ」と親父から言われたことを思い出す。「人間の五感を大切にしなさい」と理解している。最近は、病院に行くと触診ではなくて検査データをもとに診断されるケースが多くなった。五感よりデータ重視となれば、22世紀はロボットが人間の生殺与奪の権を握ってしまうSF社会になってしまうかもしれない。
2016年8月31日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第144号
『嫌老より賢老』
学校長 荒木 孝洋
暦の上では間もなく白露、秋の気配が深まり露の量が増える季節、ここ数日、気温も下がり朝夕いくらか凌ぎやすくなった。熱波で火照っていた身も心もホッと一息。当たり前のことだが、人は皆、春夏秋冬、季節が一回りすると齢をひとつ加えていく。私も70回目の秋を迎えることになった。古来より70回目の誕生日は『古希』と呼ばれ、めでたいことだと祝いの席が設けられる。「よくぞここまで生きてこれた」と感慨深くもあるが、「あと何年生きられるのかな?」と不安もよぎる。知人から「古希まで生きるのは、昔は珍しいことだったが、今は古希で亡くなる方が珍しい。いつまでも元気でいて下さい」と励ましの言葉を頂いた。
とは言え、「高齢者の増加」は国としては大きな課題であり、渦中の年齢としては、キツイと思えるような施策であっても受け入れていかなければと覚悟しているが、先日、ネットでショッキングな漫画を見つけた。題名は「ハローワーカー」、作者は首相官邸にドローン飛ばした人物だそうだ。その内容は少子高齢化に悩む未来の日本。若者の失業対策として「老人駆除法」が施行され、増えすぎた老人を処分する「老人駆除部隊」が結成され若者たちが老人狩りをするのです。ひとりの老人を処分するごとに一万円。高齢者を間引きすることにより、年金、医療費を浮かせて若者たちの出産、育児、教育費に充てるストーリーだ。老人たちも「スーパー老人部隊」を結成し若者たちに対抗します。マンガとはいえ、ブラックユーモアと笑っていられないリアリティさです。現実に、高齢化社会の日本人の4人に1人は65歳以上のお年寄り、これが2060年には人口の40%が年寄となる社会です。作家の五木寛之さんは、著書『嫌老社会を超えて』の中で、このマンガについて「今の社会をどこか反映しているのではないか。人より先に有毒ガスを察知する炭坑のカナリヤみたいに。嫌老社会の入り口に今我々は立っているのではないか」と述べておられる。老人ばかり増え、若者たちがいくら働いてもお年寄りのための年金にばかり使われ、結婚もできない社会では、若者は嫌老になるはずです。株価が上がり円安になっても非正規の若者の生活は向上しないし、GDP600兆円とか希望出生率1.8、介護離職ゼロなんて実現不可能な数値をいくら並べても前には進めない。このまま放っておくと老若の軋轢は深まるばかり。対策を先送りし、気付いたらマンガ「ハローワーカー」の世界では悲しすぎる。
どうも、マンガ「老人駆除法」の根底には『嫌老』があるようだ。そこで提案だが、「老人よ『賢老』に変身しよう!」。では、どうしたら『賢老』に変身できるのだろうか。作家の童門冬二さんは、『賢老』の秘訣について、『三つのK』が必要だと提案されている。「経済」=(金)、「健康」=(身体)、「希望」=(心)の三つです。さらに、高齢者にとっての人生行路は「起承転結」というより「起承転転」だと。人生の「結」は、今までのような悠々自適な老後と考えるのではなく、新しい生き方への区切りであり、最後まで転がり続ける「転」と認識した方がよいと。89歳の童門さんは、今も元気に執筆や講演活動をされている。また、82歳の作家、五木寛之さんは、著書『下山の思想』の中で、「人生行路は山登りに似ている。青雲の志高く頂上(坂の上の雲)を目指すのが若者であり、老人は辿ってきた道をユックリと振り返りながら下山する。それが賢老の歩みだ」と述べておられる。下山は『頂点を極める』という目標から解放され麓の道を踏みしめながら歩けるから、歩数も違うし見える景色も違う。古希を迎えた今、人生の「来し方・行く末」に思いを馳せながら『転・転・転・・・』と、命が続く限り、若者応援部隊の『賢老』を目指してユックリと歩みを進めていきたい。