学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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吹奏楽部創部50周年

2017年9月21日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ

第156号

 

『吹奏楽部創部50周年』

学校長 荒木 孝洋

 

 暑さ寒さも彼岸までと言われるが、今日は(9月20日)彼岸の入り。熱波の夏よオサラバ』、気温も下がり朝夕随分と過ごしやすくなりました。秋本番の爽やかなこの季節、本校吹奏楽部は創部50周年を記念して10月1日(日)に『50周年記念オータムコンサート2017』を開催します。場所は県立劇場、13:00開場、13:30開演。もちろん、入場料は無料です。多数の方のご来場をお待ちしています。

 

 本校吹奏楽部は昭和44年に創部し、一時期、部員不足から休部の危機もありましたが、各方面の方々による技術指導やご支援を仰ぎながら、文化祭、野球の応援、施設慰問やコンクールなど学校内外の行事においても精力的に活動し今日の日を迎えることができました。現在部員が51名、音楽をこよなく愛する子どもたちばかりです。県立劇場での秋の定期演奏会も8回目を迎えましたが、夏の暑い日、冬の寒い日、そしてまた勉学との両立を果たしながら練習を重ねてきました。授業の関係で全員が揃っての練習時間は多くはとれませんが、いったん演奏となると見事なハーモニーが醸し出され深い感動に浸らせてくれます。観客の皆さまの励ましの声に部員たちは元気を頂き、今年も素晴らしい音色の演奏を聴かせてくれるものと思います。

 

 ところで、作家の五木寛之さんは音楽の効用について、「歌は心の食べ物、辛いとき、悲しいとき、私たちは歌うことで自分を励まし慰める。でも、歌に励まされるのは、ほんの一瞬。しかし、その一瞬がとても大事である。それが歌や音楽の力である」と述べておられます。音楽を含めて絵や書を書いたり木や石等を造形する芸術は、心身の健康に優れた効果があると言われています。免疫力がアップし消化が良くなる。また、脳の働きが活性化する。気分転換できてストレスが解消する等々・・・。とりわけ、脳のリラックスには効果が大きいようです。脳は重さはわずか1,300gですが、とてつもない仕事をこなしています。血液を循環する、呼吸する、食べ物を消化する・・・これらを行うのはそれぞれを受け持つ器官ですが、コントロールするのは脳。見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐ・・・これらをつかさどるのも脳。記憶する、考える、判断する、感動する・・・これらも脳の働き。私たち人間の全ての活動をつかさどり24時間働きっぱなしです。その精妙な仕組みと働きには、人間が作ったどのようなコンピューターでも及ばないといわれます。今年の演奏会は、リラックスタイムof脳』、ガンバリ屋の脳をゆっくりと休ませる時間となることを期待しています。

 

 さて、今回の演奏会には、創部当時の顧問である平川先生もお招きして、初代の演奏曲「行進曲」や「士官候補生」を指揮していただく予定です。さらに、本校卒業生でサックスのプロ演奏家として活躍されている村田貴洋先輩や、バトントワリングで大活躍中のフレンズバトンスタジオのメンバーの方々、崇城大学吹奏楽団、文徳高校OB・OGの皆さんにも賛助出演していただくことができました。限られた時間ですが、子供から大人まで幅広い世代の皆さんが楽しめる曲目を準備しています。舞台と客席が一体となって盛り上がることを心より期待しております。 

 

 最後になりますが、創部50周年の記念演奏会を開催できますのも、ひとえに、日頃からご指導・ご支援いただいている多くの皆様のおかげです。関係するすべての皆様への感謝の思いをお伝えしてご案内のご挨拶といたします。

 

時空を超えて

2017年9月1日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第155号

 

『時空を超えて』

学校長 荒木 孝洋

 

 中学時代の同級生から同級会の案内状が届いた。葉書の端に、「年々歳歳花相似たり 歳歳年々人同じからずの一句に新たな意味を感じる年齢になりました」と添え書きしてあった。唐の詩人・劉希夷の「代悲白頭翁」の有名な一節である。中学2年の時の国語担当のK先生に教えてもらった詩だが、彼もそれを記憶していたようだ。当時を思い出して感慨を新たにした。白髪交じりの柔和なK先生は、「文章はリズムだ、君たちの年齢ならすぐに暗記できる」と言って、古今東西の名詩をガリ版で印刷して配られ暗誦させられた。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」もそのひとつ。「小なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすハコベは萌えず 若草も藉くによしなし しろがねの衾の岡邊 日に溶けて淡雪流る」今でも(そら)んじているが、語尾を少し長く、ゆっくりと音読されていたことを思い出す。若山牧水の「白鳥は悲しからずや空の青海のあおにも染まずただよう」の詩を詠むときは、目を閉じて遠くの空を仰ぐようにして朗読されていた姿が懐かしい。先生は「文章には生命力がある。年を経、異なる境遇にあって思い出すと、その時に応じて違う意味を帯びて現れ、生きる力を与えてくれる」これが口癖だった。先生の言葉通り、人生のさまざまな局面でそれらの文章を思い出して新たな感銘を受ける。国語はあまり得意ではなかったが、その教えに感謝している。

 

 話題はそれるが、私が数学教師としてスタートしたのは今から50年前の1968年、数学教育では遠山啓氏の「水道方式」という教えがブームの時代であった。友兼清治氏の著書「遠山啓ー行動する数楽者の思想と仕事」という本がある。その著書に、当時の教育についての遠山氏の警鐘と考察がしたためられている。一部抜粋して紹介する。「日本の子どもたちは、うぬぼれる少数の子供と自分自身に見切りをつけて自信を失った多数の子供に二分されるであろう。そうなると、政治はすこぶるやりやすくなるだろう。なぜなら、自分自身に見切りをつけたあきらめのよい国民ほど統治するのにたやすい国民はないからだ。(中略)日本人は目をつぶって断崖から飛び降りるような危険な衝動がある。これは危機がくると頭をもたげる。これに対抗するためには科学的思考が養われる必要がある。宇宙の中で人間ほど複雑で底知れぬものはない。人間というものの底知れなさ、測りがたさに対する畏れの感情を失ったとき、その瞬間から教育は退廃と堕落への道を歩みはじめる」。今の時代の教育への警鐘と言っても違和感がない。 

 

 昨今、アクティブラーニングとか小学校からの英語導入などの授業改革が提言されているが、授業はさほど軽いものではない。生徒の理解度や満足度は教師の教材理解の深浅によって異なるし、刻々と変化する環境に、臨機応変に対応する技術も必要だ。理論やマニュアルだけですぐさま実践できるわけではない。かって、若い教師は先輩から「十を知って一を教えよ」と戒められたものだ。先輩の優れた技術を盗み、実践し、結果を分析し、修正し、また実践する、その繰り返しによって教師の指導力が身についていく。まして、人を支え育てる営みとしての教育は、人間の本質という水源に遡ることなしには枯渇するのに、今の教育改革の議論には、「そもそも人間とは何か」という問いが抜け落ちている。K先生は時空を超えて生きる力を育むための教育を実践され、遠山先生は人間の根底に横たわる脆さや弱さを克服するために科学的思考の訓練の大切さを伝えたかったのだろうと推測する。教育改革の議論が時間数の増減に矮小化されたり、多様な社会のニーズや子供が抱える課題の解決を学校にだけ求めるようでは日本の教育は崩壊する。

 

たまねぎ

2017年7月11日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第154号

 

『たまねぎ』

学校長 荒木 孝洋

 

 私はタマネギが大好きだ。焼いても炒めても生でも天ぷらにしてもうまい。カレーの具材にも欠かせないタマネギ、ほんのりとした甘みと食感が何とも言えない。皮を一枚一枚剥がすと芯しか残らないが、その芯から出た種を畑に植えると、また、一枚一枚と皮を増やしながら立派なタマネギに成長していく。私は育てたことはないが、土壌管理と気温や肥料によって成長に大きな差が出るそうだ。人間の成長もタマネギに似ている。子供は螺旋階段を上るように、学習によって知識と知恵を膨らましながら大人に成長していく。玉葱の栽培は石灰を撒く土壌作りから始まるが、学習もしかり。基礎・基本の習熟が土作りにあたる。土作り(基礎基本)ができていないと、その後どんなに肥料(教育)をやってもうまく育たない。その原点は江戸時代の寺子屋教育にある。「読み・書き・そろばん」の繰り返し、タマネギの苗作りにあたる。初等教育では今も昔も変わらない。

 

 ところが、昨今の教育改革提言を見ると「知識を伝達する教育より、自ら学び、自ら考える力を育成することがこれからの教育では重要である」と、知育が軽く扱われているように感じる。「情報化の進展は、知識を陳腐化させるスピードを速めるから、古い知識はすぐに役立たなくなる。それゆえ、情報収集の方法を教える方が価値がある。情報収集の方法さえ身につけば、問題解決能力や創造性を発揮できるようになる。また、生涯学習の時代になるから、学校時代は学び方さえ身につけておけばよい」といった付則も提言されている。いずれの指摘も、タマネギ作った(授業をした)ことがない人が、壇上で作り方(授業の仕方)を講釈しているように聞こえてしまう。

 

 たしかに、マスコミやネットで流れる情報の陳腐化の速度は速まっている。しかし、学校で教える知識は、もともとそうした「流行」の知識やニュースではない。むしろ、新しい知識を理解する上での基礎となる知識である。高校レベルの理科の知識なしに、最先端の科学技術の理解は無理であるし、現代社会の問題を考えるときも高校レベルの社会の知識が必要になる。数学は論理的な思考を訓練するのに最も有効な教科である。いずれの学習も、新しい知識は常にそれ以前の知識と繋がっていることを忘れてはならない。また、コンピュータによる情報検索の方法にどんなに詳しくなっても、そこで得た知識や情報を理解できなければ、集めた情報は無意味になる。さらに、情報の量が多ければ多くなるほど選別する力(知識)が益々重要になる。一方、生涯学習の時代だからといっても、学校時代の学びが無意味だと言うことにはならない。むしろ、基礎知識があるとないとではスタートラインが随分と違ってくる。たとえ、忘れたにしても一度理解した経験があるかないかによって、学び直しの難しさが違ってくる。

 

 振り返ると、今回提言されている「自ら学び、自ら考える力を育成すること」は、昔から学校教育の根幹に据えられていた目標であり、前段には「知識の習得を通して、・・・」と書かれていた。教師は研究会等で指導法を磨きながら教科指導に全力を注いでいた。ところが、昨今の矢継ぎ早な改革は真逆である。小学生から英語教育が始まり、IT教育、ディベート、◯◯教育、記述式の大学新テスト、アクティブラーニング・・・。やることが広がりすぎて、じっくり考えさせる時間がドンドン減っている。人間の意欲やリズムを無視したゆとりのない教育論が跋扈(ばっこ)するようでは「たらいの水と一緒に赤子を流してしまう」ことになってしまう。つまり、「あまりにも熱心に改革や改変や行動を急ぎると、不必要な要素を取り除くうちに必要な要素までとり除いてしまうことになる」ということだ。タマネギの温度管理と同じように、人間の学びには試行錯誤の熟成(ムダな)時間がいる。拙速と迅速は似て非なること、為政者や教育者がいつも心しておかねばならぬことです。

 

面受(めんじゅ)

2017年6月19日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第153号

 

『面受(めんじゅ)』

学校長 荒木 孝洋

 

 昭和44年、私は大学を卒業すると同時に横浜の盲学校に着任した。もちろん、新幹線はないから、夜行列車「みずほ」に乗って12時間の長旅である。ゼミのI先生から「東京では、一流のものに触れる機会が多いから、金を惜しまずに出かけるように」と、餞(はなむけ)()の言葉を戴いた。美術館、音楽会、演劇鑑賞、講演会、神田の古本屋、・・・ナケナシの給料を叩((はた))いてせっせと通った。菅原洋一や由紀さおりのリサイタル、日フィルのコンサート、上野美術館、末廣亭の落語、有名人の講演会・・・etc。休日には丹沢山のハイキングや富士登山、国会議事堂周辺での安保反対デモも見に行った。横浜関内駅裏のドヤ街と言われる食堂で日雇い労務者と一緒に安酒を煽ったことも思い出す。肉声を聞き、存在を感じ、その人やその集団と同じ時間を過ごしたこと、キツイ思いをして達成した苦労など、50年経った今でも、心の奥の襞に染みこみ新鮮な形で宿っている。原体験は手間暇かかるが、その人の表情や息遣い、肉声を通して聞こえた言葉には全身で感じるものがあり、時間と場所を共有したからこそ腑に落ちることも多い。

 

 ところで、人工知能の開発が進み、インターネットがあらゆるものを結びつけ、生活の効率や利便性を高める機能が次々と生まれている。人により使いこなせる度合いは違うが、自分だけ参加しないという選択は難しくなってきた。「コンピュータにできることはコンピュータに任せ、人間は人間にしかできないことに時間をかければ、人間の能力は向上し社会は発展する」と言われるが、果たしてそうだろうか? 利便性の裏側には失っていることも多い気がする。例えば、ラインやメールの普及は連絡を容易にしたことは確かだが、簡単に送・受信できるため、手紙を書いたり対面して会話するなどの習慣や能力は気づかないうちに萎えている。また、ツイッターなどで発信された情報はコンピュータに蓄積され、いつでも誰でも検索できる利便性はあるが、読んでもらうために偽情報を流す人も現れ、発信された情報の信頼性がなくなっている。また、読む方も自分の考え方に合うものや興味あることだけ探す傾向になる。そうしているうちに、頭の動きが検索型になってしまい、わからないことがあれば検索し直ちに答えを見つけようとする思考形態に陥っていく。つまり、連想して考えたり持続して考えることが苦手になり、都合の悪い意見は排除してしまう性癖が身についてしまう。学校教育で最も大切にしている「相手のことを思いやる、相手の意見を聞く」教育の否定でもある。

 

 気がつくと、後戻りできないネットの広がりだが、立ち止まって検証することはできる。特に、情報機器の低年齢化は、我が国の未来にとって大変困った事態である。ノーベル賞を受賞した日本人の多くは地方出身者であるが、知的好奇心旺盛な青少年期を過ごした方が多いと聞く。幼少期は、純粋で多感であり、「何で?」を連発しながら成長していく年齢である。グローバル化していくこれからの時代、英語力やプレゼンテーション力、コミュニケーション力は益々重要になるだろうが、いずれも手間暇かけて獲得した知識やまどろっこしい思索の産物だ。仏教に「面受」という言葉があるが、原体験はこれに近い。「面受」のもともとの意味は、面と向かって口伝えに仏の教えを伝えることだそうだが、このことは仏教に限ったことではない気がする。世界の情報をインターネットで調べたり、CDで音色のいい音楽を聴くこともできるが、実際にその人に会ったり、生の歌声や主張を聞く体験はとても意味があることだと思う。幼少期の自然体験や友達との戯れもその類だ。授業料は少し高くつくが「経験は最良の母」とも言われる。せめて高校生ぐらいまでは「さらばスマホ」、廻り道を選択して欲しい。読書や体験、人との交わりを通して人間力を高めたいものだ。

 

急なくして緩ならず

2017年5月11日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第152号

 

『急なくして緩ならず』

学校長 荒木 孝洋

 

 スポーツの世界では、優勝すると思われていた選手が惨敗し、逆に、予想だにしなかった選手が優勝することがある。そんな時、敗者は「力んでしまいました」と、勝者は「肩の力を抜くことができ、最高でした」という言葉をよく口にする。理由は何だろう?。一流のスポーツ選手は、あらゆる場面を想定し、繰り返し繰り返し、心身を極限まで痛めつけて練習を重ねる。そうすることで、実際の試合になると肩の力が抜けて練習の成果がでる。しかし、肩の力を抜くことばかり考えて、練習そのものをいい加減にしていたのでは、かえって、試合で肩に力が入りよい結果を残すことができない。

 

 受験もスポーツに似ている。毎年のことだが、模試ではいい点を取っていた生徒が、本番の試験では緊張して力を発揮できず悔しがる場面を目にする。「緊張する、あがる」ということは、準備不足や力量以上の結果を求めることであり、心の問題も含まれる。このことについて、仏教の経典に次のような示唆に富んだ話がある。釈迦が弟子に対して説法する場面である。真面目に一心に修行し、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続けながら、なおも悟りを得ることができず苦悩している弟子に向かって、「お前は琴を学んだことがあるだろう。糸は張ることが急であっても、また緩くても、よい音は出ない。緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである」と釈迦は弟子を諭す。さらに「弦を張るときは、張ることが急(強すぎる)であってはならないからと、最初から緩くすると、残念ながら張り方が中途半端になってよい音は出ない」と。釈迦の教えは心の緩急にも重なる。「緩急よろしき」というのは、「緩(力みがとれる)は作るものではなく、急(ハードな訓練)の後に自然と訪れるものだ」ということだろう。

 

 因みに、成績が向上しない生徒が陥りやすい習慣のひとつが、好きな教科にだけ時間を費やす学習だ。最初から弦を緩く張っているようなものだから、成果は期待できない。試験では何が出るかわからないから、教科書の隅々まで、小さい脚注にも注意を払い学習する必要がある。疑問があれば先生に質問するもよし、憶えられないなら繰り返し繰り返し復習しなければならない。好きなことだけするのは趣味であって学習ではない。好きなことも嫌いなことも勉強するのが学習。嫌いな教科を避けているようでは、いざという時、不安が増幅し力を発揮できない。

 

 そして、勉強する上で、心しなければならないことがもう一つある。学習は難問への挑戦ではなく基礎・基本の習熟にあるということだ。福岡の予備校で教鞭を執られたいた(故)磯野幸先生の言葉を思い出す。「基礎の上に基礎があり、基礎の下に基礎がある」と。ここで言う基礎・基本とは易しい問題を解くということではない。原理・原則に従って知識を系統的に整理することを指している。難問・奇問もヒントは基礎・基本、すべてが教科書に記載してある。東大に合格した松野君(23才)は、高校在学中、躓くと教科書に返ることを繰り返していた。まさに、教科書が最良の参考書だということの証だろう。

 

 ところで、現在のセンター試験は知育偏重であるとして、平成35年度から学力評価テスト(仮称)に変更される。「知識だけでなく考える力を問う」というのが目的である。「今までの学びはパーツを作っていたにすぎない。例えば、中高では、英単語を覚える、方程式を作る、化学反応式を覚えるだけのパーツ作り、その量と質を問うのがセンター試験ということだった。これをもっと発展させて、そのパーツを使って何ができるかを問いたい」との談話だ。国語の記述式問題や英語の外部試験導入が検討されている。全貌が判明するのはもうしばらく先のようだが、「考える力」というのは物作りに似ているから、立派な物を作るには、まずは立派なパーツ(部品)を揃える必要がある。受験もしかり、国語や理科や数学など授業で学ぶ内容がパーツである。しかも、組み立て技術(思考力)まで問うのだから、パーツの精巧さが益々重要になる。

 試練を乗り越えるための必要条件は、スポーツも学習も同じ、「急(ハードな訓練)なくして緩(力みがとれる)ならず」の教えを心しておくこと、そして、その訓練は基礎・基本の徹底にあること。文徳学園は、皆さんのひとり一人の夢実現を応援し続けます。生徒諸君の日々の精進を期待する。