学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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2018年5月28日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第164号

 

                     『未体験ゾーン』        

学校長 荒木 孝洋

 

 東京だけでなく地方にも摩天楼のような高層ビルが増えてきた。一般に、その寿命はメンテナンスによっても違うが60年ほどだと言われている。因みに、日本初の超高層ビル、地上147㍍36階建ての霞が関ビルが建ったのが、ちょうど50年前の1968年。となると、そう遠くない将来に解体時期を迎えることになる。平成21年に解体現場に立ち会ったことを思い出した。壊したのは本校の校舎、昭和36年に建てられた4階建ての旧校舎は築50年、柱は頑丈だが壁面や屋上のコンクリートが剥落し床もアチコチに歪みが現れていた。安全面からも学習環境としても不都合だと判断し改築に至った。解体に使う重機はスケールが大きく、恐竜のような羽で壁をガツーンと壊す。当然最上階から壊すので重機も4階に上げられ、上手にバランスを取りながら校舎が壊されていく。安全には万全を尽くした作業とはいえ、まるでおもちゃの「ジェンガ」と同じような危うさを感じた。その後、解体されたコンクリートの塊は機械によって細断され、鉄筋と木屑とコンクリートに区分けされる。4階建ての華奢な建物を壊すのでさえ、3ヶ月もかかり、解体には大変なエネルギーがいるということを実感した。

 戦後の日本は、高度成長のシンボルとして高層ビルを建て増し続けてきた。しかし、老朽化した建物の解体ラッシュは未体験ゾーン、一体どうなるのか予想もつかない。その点では原発もしかり。事故が起きるまでは“安全神話”に乗っかって避難訓練さえまともに行われてこなかったし、まして廃炉についてはその費用が幾らかかるかさえ知らされていない。福島第一原発の廃炉には最低でも21兆円はかかると言われている。しかも、放射性物質を飛散させずに取り壊すのは至難の業だそうだ。形あるモノはいつかは壊れる。高層ビルも原発も、巨大で複雑な構造物を造り上げたのは偉業でも、いつかは老朽化し壊れる。我々はいずれ遭遇したことのない事態を迎えることになる。「造ること」・「作ること」・「創ること」、いずれも楽しくてワクワクする作業だが、壊すことについては誰もが意外と無頓着だ。

 一方、「壊したくない」「残したい」と思っても残せないのが人の命。病気、事故、老衰など要因はさまざまだが、間違いなく命は消えていく。若い頃は、「◯◯年、完成予定」とか「XX年、開通見込み」などと聞くと待ち遠しかったのが、いつしか、今の私の年齢からすると「とても見られないな」、「乗れないな」と思うようになる。人はある年齢に達すると、人生が有限であることが実感として差し迫ってくる。例えば、熊本城修復に20年の年月を要すると聞くと、若者にとっては待ち遠しくなる知らせだろうが、私にとっては絵空事に聞こえてくる。建物と違って命の未体験ゾーンの捉え方は人生観だけではなく年齢によっても大きく異なってくる。

 そうしたとき、遠からずこの世からいなくなるのなら好きなことをして楽しもうというのも一つの選択肢。しかし、自分のことだけ考え、将来の日本の社会や子供たちに心を致さないのは、やはり人として望ましい生き方とはいえまい。植物だって子孫を残すためにさまざまな手法で種子を大地に残す。人間だって同じ。どんな人でも、この世になにがしかを残すことができるはずである。それは、子孫や財宝のように目に見えるモノだけとは限らない。無形のもの、誰かの記憶の中でもいい、自分の生きた証は必ず残せる。次代を少しでも豊かで思いやりにあふれたものにするための痕跡を残せるよう、ささやかでも、何か行動を起こしたい。それが今の時代を生きている者一人ひとりに課せられた責任でもあろう。

 形あるものはいつかは壊れる。「高層ビルを壊す」と「生きた証を残す」は真逆の課題のようだが、人は、壊して残ったガレキの山に、くらしの想い出やそこで交わした人との会話に思いを馳せる、それも生きた証。未体験ゾーンは過去との対話であり未知との遭遇でもある。生きてる限りドキドキ・ワクワク・・・・・。

2018年5月9日

  

 

 

 

 

 

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第163号

 

『年中夢求』~1日の24時間を自分でデザインする~    

学校長 荒木 孝洋

 

 崇城大学の公認陸上競技場での初めての体育大会、日和にも恵まれ、“心も体も日差しも熱く燃える1日”が感動のうちに終わりました。連休が明けて、体育大会の練習で少し遅れていた学習を取り戻すスタートの日となりました。文徳生は『やればできる』と確信しています。しかし『やるのは自分だ』ということも忘れないで、気持ちを切り替えて頑張ってくれることを期待しています。

 タイトル『年中夢求』はサッカーの強豪校大津高校の前監督(現宇城市教育長)平岡和徳さんの言葉です。10年前、平岡さんの講演を拝聴する機会がありました。朧気な記憶を辿りながら要旨を紹介します。「私がいつも選手に言っていることは『自主的に課題を発見し、達成していく能力を磨く』 ということです。私は1日100分しか練習させません。いつ終わるかわからない練習より、ゴールが見えている方が効果があるからです。残り20数時間は、人の話に耳を傾ける、物事を注意深く見る、そんなことを考え、24時間を自分でデザインできる人になって欲しいと思っています。24時間を自分でデザインすることの基本は、まず、きちんと挨拶ができることです。強いチームはあいさつができます。不快感を与えないあいさつができることは、コミュニケーションの基本、24時間をデザインする基本です。『返事ができない』『部屋が汚い』『靴が揃っていない』は論外です。それでサッカーに勝とうなんておこがましい」・・・こんな話もありました。「苦しいときは前進している。練習が苦しく、やめたいと思っている時こそ成長している。過剰な慰めや励ましは、気晴らしにはなっても明日の力にはならない。苦しいときこそ、一生懸命に課題達成に向けて努力を継続することが大切だ」とも話されました。

 勉強もスポーツと同じ、平岡さんの講話で、練習を『勉強』と言う文字に置き換えると受験にも通用する話になると思います。「私は1日100分しか勉強させません。いつ終わるかわらない勉強より、ゴールが見えている方が効果があるからです」・・・「苦しいときは前進している。勉強が苦しく、やめたいと思っている時こそ伸びている」となります。キーワードは『集中力』と『継続』です。伸びる生徒の特長は“時間管理”と“学習習慣”が定着していることです。夢実現への近道はありません。一足飛びにジャンプして掴める栄光はないのです。当たり前のことだけど、①目標を忘れないこと(年中夢求)②自分の力を信じること③急がずじっくり一歩一歩前進すること(継続)が大切だと思います。

 ところで、この春の卒業生は、厳しい試練に耐え見事大輪の花を咲かせました。数の上でも、国公立大学に75名(医学部医学科3名、九州大3名、熊本大24名、熊本県立大学10名など)と、昨年より17名増加し、私立大学には460名(医・歯・獣医学部4名、早稲田大学3名、慶応大学1名、福岡大学11名、崇城大学薬学部20名など)の生徒が合格しました。もちろん、開校以来続いている就職率100%は今年も達成しました。酷暑厳寒の中の授業や課外、そして、壁にぶつかり、悩み苦しむ中にも、常に光を求め、『自分』を『先生方の指導』を信じて果敢に挑戦していった成果だろうと思います。先輩が残してくれた『学びの姿』をお手本にして新しい学年のスタートを切って欲しいと思っています。後輩から見ると、自由奔放に生きているように見えた先輩でも、級友と切磋琢磨しながら、あるいは、自己の欲望との葛藤の中で、基礎基本を憶えこむ時期があったはずです。勉強には厳しさが大切だと思います。社会を見渡すと、さまざまな分野で「スピード」と「効率」を求める風潮にありますが、加速されすぎると、人間から思考や夢見る力を奪い取ることになります。まどろっこしいようですが、1・2年生は基礎基本を徹底してマスターし、3年生は自らの特性を伸ばすことを目標に、『ガンバレ自分』と自らを励ましながら、自分の学習スタイルを確立していただきたいと思います。

2018年4月12日

 

 

 

 

 

 

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第162号

 

          『自分にそれを言う資格があるのか?』    

学校長 荒木 孝洋

 

 心地よい春風とともに新学期を迎えた。入学したばかりの新入生の制服が眩く、緊張した顔が新鮮に見える。“私は私を創っていくただ一人の責任者です”と言う言葉があるが、自立と自律を前提として、己の前進を夢見る高校生活のスタートを切って欲しいと願っている。文徳はそんな若者を全力で応援します。

 ところが、春風の心地よさと違って、地球上では、年中、あちこちで嵐のような旋風が吹き荒れている。アメリカでは政権中枢の解任は年中行事、北朝鮮との突然の和平交渉かと思うと、一方では関税引き上げによる貿易摩擦など世界中がトランプ大統領に翻弄されている気がする。シリアでの化学兵器使用によるアメリカとロシアの衝突も心配だし、北朝鮮の金正恩委員長の動静も思惑が見え隠れし不安が増幅する。一方、日本はどうか?新聞やテレビなどのマスコミから流れてくる報道で知ることばかりだが、森友・加計問題では文書が改竄されたり新たな事実が暴露され、南スーダンやイラクへの自衛隊派遣では隠蔽された記録が次々と明らかにされている。当事者でないから事の真偽は分らないが、胡散臭さはぬぐえない。国会での質疑・応答も「言った」「言わない」の押し問答ばかりで埒があかない。教育を預かる我々からすると、国会でのこのやりとりを生徒たちになんと説明したらよいのか戸惑うばかりだ。古来から日本人は皆、幼少の頃から「嘘をついたらいかん」「隠し立てをするな」と教えられてきたのに、大の大人がこれでは示しがつかない。

 さらに、最近のテレビやネット上でのやりとりを見ていると、二者択一の「Yes」か「No」かの排他的やりとりが多くなっているようで気になる。自分を棚に上げた大人たちの無責任な発言を聞くたびに、腹立たしく悲しくなってくる。以下、最近の話題を素材にして私の感想と意見を書いてみた。

 【その1:今の学生は・・・】大学生を対象としたある調査で、1日の読書時間を「0」と答えた大学生が半数以上(53%)と報じられた。背景として、高校までの読書習慣の低下の影響が大きいと分析されている。私は、読書は言葉や思索や感性、想像力を豊かにすると考えているので、読書離れはもったいないと思う。小中高の間に読書の習慣を「標準装備」させることは小学校の英語教育より遥かに重要だと思う。ところが、世間のコメントは違う。こういうニュースがあると「日本の教育が悪い」とか「勉強しない」「内向きだ」「打たれ弱い」「規範意識が足りない」などと読書とは関係ない言葉を若者に投げ返す。その手の話を聞くたびに、大人にそれを言う資格があるのだろうかと考えてしまう。少なくとも私には、今の大学生が「勉強しない」とか「指示待ち族が多い」などと言う資格はないし、そう思ってもいない。自分を棚に上げて人を悪く言うのはいかがなものか。むしろ、今の若者は我々老人が若かった頃より遥かに前向きでチャレンジ精神が旺盛である。熊本震災の復旧ボランティアで活躍したのも大半は若者であった。

 【その2:君たちはどう生きるか?】先日、マンガを購入した。1937年初版の吉野源三郎さんの著書、「君たちはどう生きるか」を漫画化したものである。次のような話がある。“主人公のコペル君は友達が乱暴な上級生たちから暴力を振るわれる場に居合わせながら、別の友達は彼を助けようと上級生に立ちはだかったのに、怖くて何もできなかった。そのために自分を意気地なしの卑怯者と苛(さいな)み、高熱で寝込むほど苦しみ悩む”といった話だ。同じような場面で勇気を出して行動できる大人がどれだけいるだろうか?。そうでない自分に言い訳をせず、これほど真剣に恥じたり苦しんだりする大人がどれだけいるか?。「君たちはどう生きるか」、それは子供や若者に与える課題ではなく、大人を含め、一人一人がどんな人間であるかを試される真剣勝負の問いかけではないかと思う。

 教育費無償化が国会でも話題になっているが、むしろ大切なことは「人間とはこんな姿だよ」と大人が胸を張って言えるかどうかだ。教育は金ではない。ずる賢い反面教師ばかりの世の中では子供は育たない。

2018年2月23日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第161号

 

                        『電子黒板とタブレット』    

学校長 荒木 孝洋

 

 自動販売機が日本中どこにでも置いてある。街の中はもちろん田舎の人通りの少ない家屋にも据え付けられ、夜間はその煌々たる灯りが外灯の役割を果たしている。販売品目の種類も多く、飲み物だったら、お茶に水、コーヒーにジュースなど多彩で、しかも温かいモノと冷たいモノがボタンひとつで選択できる。実に便利な代物を発明したものだと感心する。朝、目覚めて「まずはお茶」から始まる私だが、そんな家庭も減ったと聞く。ペットボトル片手の若者の姿が当たり前の光景になってきた。因みに、世界初の自動販売機は、古代エジプトの寺院に設置された聖水を販売するための装置と言われている。硬貨を投入すると、硬貨の重みで栓が開き、蛇口から水が出る構造だったそうだ。また、自動販売機は、人手を介さずに商品を購入することができる機械だから、販売者の側から見ても、狭い敷地に多くの販売機を設置できて人件費も削減できるなどメリットが大きい。ロボットの一種だ。

 一方、学校でも教室の風景が一変しつつある。チョークと黒板に代わり電子黒板とタブレットの導入が急速に進んでいる。熊本市の中学校では4月から全校に配置されることになるそうだ。ICT教育のメリットは映像や音声を利用するからわかりやすいし、五感に訴えるから楽しく学ぶことができることだ。例えば、タブレットを使うと、図形を反転させることもできるし、立体の切り口も瞬時に表現できる。しかも、タブレットに書き込まれた生徒の解答を電子黒板に映し出すと、いちいちチョークで黒板に書く必要もないので効率的に授業が進められる。スマホを自由自在に操る子供にとっては何の違和感もない授業である。実験校での検証でも好評のようだが・・・・。この光景は子どもたちが一人一人自販機を持ってるようなものだ。タブレットを使うと、図形の空間把握ができない生徒でもボタンひとつで展開図を手に入れることができる。その姿はまさに自動販売機の操作に似たり。

 しかし、利便性の裏には影もある。ICT教育の先進国である韓国ではその弊害が幾つか指摘されている。列挙すると、①子供の学力に目立った変化は現れていない(学力向上)②資料を検索するとすぐに答えが出るから、問題解決能力が落ちてくる③読書量が減る④能動的に学ぶ姿勢が失われる⑤基礎力が身につかず、知識がうろ覚えになる⑥飽きが来る⑦マルチスクリーンは子どもたちの注意力を散漫にする・・・。

 元来、学校教育では、学問の基礎・基本となる知識の修得と試行錯誤の体験を通して思考力を培うのが大きな目標であったはずだ。画像と音声は刺激的で興味関心を醸し出すには格好の道具だが、思考を深化するにはそぐわない。立体図形を頭の中に描き断面図を想像するのは手間暇かかることだが、その悩ましい試行錯誤の時間が思考力を高める。私の持論だが、学校でやるのは「読み・書き・ソロバンとそれを操る試行錯誤の繰り返し」それで十分と考える。便利さは思考力を奪う、悩み苦しむ時間が多いほど人間の脳は成長する。意見発表や集団討論だけがアクティブラーニングだと思い込んでいる人がいるようだが、それは小学校までの学び。口を動かすだけでは脳は活性化しない。教材が難しくなればなるほど、考える時間を増やすことで脳はアクティブに活動する。吉本劇団では、師匠は劇団員に何も教えないそうだ。自学自習、「分らなかったり、思い浮かばないときは、壁の前でウロウロしろ。必ず出口が見えてくる」と。【学習=試行錯誤】ということのようだ。便利さや効率ばかり追い求めていると、思考力は必ず劣化していく。学校だけでなく政界も経済界も、見守る事・待つことが下手くそになった。日本を守るのは武器ではない、理性と精緻な思考力だ。劣化が心配。

2018年1月19日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第160号

 

                        『ブラック部活動』       

学校長 荒木 孝洋

 

 長時間労働による過労死が発端となって「働き方改革」が新聞やテレビで報道されている。学校も例外ではなく、特に部活動についてはブラック部活動としてさまざまな視点での指摘がある。このことについて、先日スポーツ庁の有識者会議が行われ、中学校の部活動指導についてのガイドラインが示された。その概要は①休養日は週2日以上で、平日は1日、土日で1日②長期休業中は部活動も長期の休養日を設ける③1日の活動時間は平日2時間、休日3時間程度④科学的トレーニングの導入⑤スポーツクラブなどと連携して地域のスポーツ環境整備を進める⑥学校が参加する大会数の上限を定める。以上の提言だが、④⑤⑥の実現には経費と各種団体の理解が必要でハードルは高い。結果として、見かけ上の活動時間は減るが『自主練習』が増えて長時間部活の実態は変化がなさそうな気がする。

 そもそも学校の部活動は時間外にしか設定できないから、指導者が教員であれば時間外勤務となるのは当たり前である。長時間労働を解決したいのであれば、指導者を外部に求めるか部活動の在り方を根本的に変えるしか解決策はない。すでに、熊本市内の小学校では社会体育に移行しつつある学校もあるようだ。確かに教師の負担は減るだろうが、子供の実態に即した改善策になるのだろうか?例えば、活動場所が遠隔地になり送り迎えができない家庭の子供は参加できないことや、指導者の都合で活動が夜間になるなど新たな課題も出ており、しかも、遊び盛りの低学年の子供は放課後でも運動場や体育館が使えないとなれば、益々スポーツ人口の減少が加速しそうな気がする。

 そんなことを考えているとき、プロ野球DENAの4番バッター筒香選手の談話「野球離れ」の記事が目にとまった。抜粋して紹介する。「楽しいはずの野球なのに、子どもたちは楽しそうに野球をやっていない。その原因は3つある。まず、勝利至上主義。『勝たなあかん』『勝たないと意味がない』といった言葉が子供を萎縮させている。次に、子どもたちが、指導者の顔色を見て、『ここで打たなかったら怒られる』、『ここでエラーしたら怒られる』とビクビクくしながらプレーしている。3つ目は、答えを親や指導者が与えすぎるので、子どもたちは指示待ちの行動しかできない。しかも、指導者の中には勝ちたい一心から練習が長くなり、ケガや体調不良が原因で競技から離れていくケースも後を絶たない。また、『ここで負けたら終わり』というトーナメント戦の弊害についても、欧米では子供の体を考えた規制がとても強く、リーグ戦で多くの子供が試合に出れるよう配慮されているが、日本はそうでない。試合に出ている子供は何試合も続くので体を壊し、出てない子供は応援しているだけで面白くない。いずれもせっかく始めた野球の楽しみをそぐことになっている。これも野球離れの原因のひとつ。私は野球だけでなくスポーツはまず楽しいことが大切だと思う」とコメントされている。

 実は、70年前は中学校の全国大会はなかった。校外での試合も宿泊禁止、高校でも地方大会が主で、全国大会は年1回程度にとどめる、という規制があった。しかし、1964年の東京オリンピック開催に向けて、規制が緩和され対外試合のタガが外された。結果として全国大会が大幅に増え、日本中の部活動が全国一を目指す現況となり、チャンピオンだけが賞賛される風潮が蔓延してきた。私は全ての子供にスポーツや文化活動に親しんで欲しいと思っている。だから、学校の部活動は、短時間でもよいから、スポーツや文化活動を経験できる時間と安全な活動場所を提供すればそれで十分だと考えている。もちろん、スポーツにおいて『勝つこと』を否定するつもりはないし、むしろ、スポーツを通して成就感を味わって欲しいと願っている。その成就感は全国大会でなくとも、授業の中での試合や球技大会、県大会など、ごく限られた範囲でも楽しみながら達成できるはずである。「それでは日本の競技力が低下する」という声もあるが、全国レベルのトップアスリートやプロを目指す場合には、欧米のように民間のクラブチームに所属する制度へ移行すれば全てが解決できる。今、国会で論議されている『働き方改革』も、部活動については小手先の改革ではなく、未来を担う子供を視点に置いた改革となることを期待する。