学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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2019年4月15日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第172号

 

                   『道草こそ人生の王道なり』     

                                                                                                                      学校長 荒木 孝洋

 

 今年は、寒冷えのせいか随分と長く桜を楽しむことができた。その桜も散り、新緑が眩(まばゆ)い葉桜の季節、4月8日に中学校21名、高校393名の新入生を迎え入学式を終えた。真新しい制服をまとい、少し緊張した新入生の姿は葉桜のように初々しく凜々しく見える。一方、3月に卒業した生徒たちも新しい学校や職場で、同じような面持ちで4月を迎えていることだろう。とは言え、全員が同じ歩調で歩み出したわけではなく、28名の生徒が“浪人”として予備校や塾に通うことになった。理由はさまざま、「高校時代遊んでしまった人」「落ちてしまった大学に再チャレンジする人」「もう少し時間をかけてワンランク上を目指す人」など。だが、いかなる理由であれ、浪人とは、人生の道草であるし、不安な中での旅立ちだろう。だが、憂えることはない。人生100年、たかが1・2年の寄り道などたいしたことではないからだ。「みんなより遅れる」=「みんなより劣る」とか「失敗」=「悪」といった世間の風潮より、むしろ、自分のモノサシで生き方を選択した彼等の勇気を称えたい。

 ところで、昨年、東京医科大や昭和大学医学部などの一般入試で、女子や二浪以上の受験生が不利になるような得点操作を行っていたことが明らかにされた。昭和大学は入試操作を謝罪した上で、現役と1浪を優遇した理由について「(現役や1浪は)活力があるとか、アクティブに動ける可能性が高いと判断した」と説明している。本当にそうなんだろうか?・・・。大学の教育実習を思い出した。担当のY先生の言葉が忘れられない。「先生になりたい人は、子どもの時に逆上がりができなかったような人がいいのよ」と。先生曰く「最初から逆上がりができた人は、できない子どもが『なぜできないか』を理解できない。でも、最初はできなくて、いろいろ試して、苦労してできるようになった人は『なぜできないか』を理解できる。そういう人は、できない子どもの目線で物事をおしえられる」と。医者もしかりではなかろうか。長寿社会は、全ての人間が病と共に生きる時代、手術の技量や診断の正確さはAIの導入により大きく進展するだろうが、患者の「残された命」に光を与えてくれる医師も大量に必要とされる時代を迎えている。「時に癒やし、しばしば支え、常に慰む」という倫理観を持った医師や看護師の養成は、残念ながら教育機関だけではできない。経験や体験がそれを補完する。そんな時、人生は思いどおりにはならないという経験をした2浪の医師は、逆上がりができなかった教師にも似ている。「もう絶対失敗はできない」というプレッシャーと、失敗したときの不安、失敗した後に待ち受ける周りのまなざしなど、とてつもないストレスに対処しながら目的にたどり着いたのが2浪の医師である。同じ言葉でも、苦しい経験から学んだ知恵と語る言葉は重みが違う。完治の見込みがない患者に必要なケアーは、寄り添って、「どんな状況の中でも、半歩でも、4分の1歩でもいいから前に進もうとする内的な力」を引き出してくれることだ。現役や1浪は、「アクティブに動ける可能性が高い」かもしれないけど、2浪は苦しい経験から学んだ「自分の足で踏ん張るとか、周りといい関係を構築する」可能性が高いと思われる。長寿社会では、そんな資質を持った医師も求められるのではないか。

 昨今、経済優先の功利的風潮が世の中を圧巻し、寄り道がしにくい社会になってきた。振り返ると、ノーベル医学賞や物理・化学賞を取った多くの受賞者はムダと思えるほどの時間をかけて、試行錯誤し、新しいことを発見したり発明したりしている。人間には、短い時間で力を発揮できる人と、寄り道しながら長い時間をかけて開花する力を持っている人がいる。功利的な社会とは後者の力を取りこぼしていく社会のことだ。悲しいかな、グローバル化の名の下、功利的であることが最優先され、『間』とか『ボーッとしている隙間の時間』がスポイルされている。あと半月で、年号も平成から令和に変わり、昭和が霞んでいく。「人生遊びだよネ」と言っていた幼少期が懐かしい。大声で叫びたい『道草こそ人生の王道なり!』と・・・・。

2019年2月25日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第171号

 

             『大坂なおみ選手が教えてくれたこと』  

                                                                                                            学校長 荒木 孝洋

 

 テニスの国際大会での大坂なおみ選手の活躍に日本中が湧いた。大坂選手は世界の4大大会である全米オープンに続き、1月末に行われた全豪オープンでも見事優勝。チェコのクビトバ選手との決勝戦は2時間半の死闘、身長180センチの長身から繰り出される時速160キロのサーブ、精密機械のようなボールコントロール、久しぶりに興奮しながらテレビを見た。一方、グビトバ選手の気力も凄い。2セット目、あと一本で負けとなる試合を土壇場で逆転した。しかし、それに怯まず大坂選手は落ち着きを取り戻し見事3セット目を取り返し勝利した。プロだからと言えばそれまでだが、鍛え抜かれた二人の技と崖っぷちでの精神力の強さに感動した。

 ところで、大坂選手の優勝会見やその他の言動を見ていて思うのは、「国際社会で活躍する際に求められる資質とは何だろうか?」と言うことである。もちろん、仕事の力量、彼女で言えばテニスの技量がなければ大舞台では活躍できないし、一定以上の英語力も重要な武器になるだろう。大坂選手を見ていると、彼女を賞賛する声のかなりの部分が、テニスの技量ではなく人柄に向けられているように思える。優勝インタビューでは開口一番、たどたどしい日本語で「ハロー!人前で話すことは本当に苦手なんです」と言って観衆の笑いを誘い、自然体でウイットに富んだ受け答えをするなど彼女の話術は大変魅力的である。さらに、彼女への賞賛は謙虚さに対して向けられているようにも感じる。米国のある新聞は、「これまででもっとも謙虚なチャンピオンだ」と記しているし、インターネットでは「謙虚なアスリートである大坂選手は素晴らしい試合をしたチェコのペトラ・グビトバ選手に対して感謝の意を伝えることを忘れなかった」と報じている。彼女の謙虚さは、時に「シャイ」と形容されることもあるが、彼女の人柄に対して与えられるこれらの形容詞は、彼女への好意から発せられているような気がする。

 昨今、日本では、グローバル人材の育成が急務だと言われ、そこで強調されるのは、自分の意見を相手に発信できる主体性・積極性である。また、コミュニケーション力を備えることも大切だとか、英語力の強化も求められる。それゆえ、学校現場では、こうした資質を子どもたちに育てようと、授業では発表の機会やディスカッションの場面を増やしている。小学校から英語教育が始まり、アクティブラーニングが推奨されるのもこの流れの一環である。しかし、大坂選手を見ていて思うことは、こうしたグローバル人材の資質リストには上がっていないものの、日本人が古来から大切にしてきたこと、すなはち、謙虚な振る舞い、相手に対する敬意、思いやる気持ち、礼儀正しさが、国際社会においても高く評価されているということである。はにかみながら謙虚に自分を語る大阪選手は、我々にそんなことも教えてくれた。

 話は変わるが、阿蘇の西原村に医療や自動車などの測定機器を製造する堀場エスティックという会社がある。本社の堀場製作所の社長は、熊本地震直後に現場を訪れ、必死になって復旧に頑張っている社員を見て「製品は作り直せるが、この人材を捨てるわけにはいかない。人材は宝だ」と思い、工場移転をやめてこの地での再建を決意したそうだ。まさに「企業にとって社員は人材ではなく人財だ」ということだろう。因みに、堀場製作所は、工場40の内半数が外国にあるグローバル企業である。創設者である故堀場雅夫氏は「これらの工場は、創業以来の社員の緻密な仕事と誠実な対応に相手企業が惚れて、先方から買収や合併の申し出があった企業ばかりだ。企業で大切なのは人間性。チャラチャラしたおべっか人間や金儲けが目的の企業は世界で通用しない」と述べておられた。大坂選手もグローバル企業もそうだが、世界で信頼される日本人に必要な資質は英語力ではなく、むしろ、武士道精神かもしれない。差し替え

2019年1月16日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第170号

 

                   『日本が売られる』       

                                                                                                              学校長 荒木 孝洋

 

 新年明けましておめでとうございます。今年は穏やかな天候に恵まれ、心地よく年始めの時間を過ごすことができた。子供の頃のように「もういくつ寝るとお正月、お正月には凧あげてコマを廻して・・・」と、浮き浮きしながら正月を待ち焦がれることはないが、この歳になっても、年が明けるとフレッシュな感覚になる。毎年恒例の親族一同の新年会は、今年も2日に、93歳の母親と兄弟姉妹とその配偶者、さらに甥や姪とその子どもまで含めて総勢29名が集まりお互いの無事と健康を確認した。

 ところで、9連休のタップリと与えられたこの時間、ありがたいことに、ドタバタばかりのテレビから離れ5冊の本を読み上げることができた。藤原正彦氏の「国家と教養」、外山滋比古さんの「思考の整理学」など・・・その中で、ショッキングだったのは堤未果さん著書『日本が売られる』だった。290ページの本の帯には、「日本で今、起きているとんでもないこと」と称し、新たに制定された法律がヅラーっと書いてある。その名称を紹介する。水が売られる(水道民営化)/土が売られる(汚染度再利用)/タネが売られる(種子法廃止)/ミツバチの命が売られる(農薬規制緩和)/食の選択肢が売られる(遺伝子組み換え食品表示消滅)/牛乳が売られる(牛乳流通自由化)/農地が売られる(農地法改正)/森が売られる(森林経営管理法)/海が売られる(漁協法改正)/労働者が売られる(高度プロフェッショナル制度)/日本人の仕事が売られる(移民50万人計画)/ギャンブルが売られる(IR法案)/学校が売られる(公設民営学校解禁)/医療が売られる(国保消滅)/老後が売られる(介護の投資商品化)/個人情報が売られる(マイナンバーが外国企業へ)・・・マスコミでもほとんど取り上げていない法ばかり、しかも、日本の未来への負の遺産が目白押し、読み返す度に暗い気持ちになる。一体、誰が、何時、こんな法案を作ったのだろうか?著者の思い込みによる極論もあるかもしれないが、政治家に怨念さえ生まれてくる。しかし、その政治家を選んだのは我々国民だ。最終的にこれらの法律に縛られ窮屈な思いをするのは我々国民だ。

 暗い気持ちで本を閉じようと思ったが、あとがき『売らせない日本』の提言を読んでホッとした。まだ間に合う、我々にできることがあると指摘されたようで救われる気持ちになった。それは、スペインのテレッサ市で水道の運営権を民間から買い戻し再公営化した市民会議のシルビア・マルティネスさんの言葉だった。「公共サービスを民間に売り渡すことは、結局高くつくだけじゃなかった。一番の損失は私達一人ひとりが自分の頭でどういう社会にしたいのかを考えて、そのプロセスに参加するチャンスを失うことの方でした。国民はいつの間にか、何もかも〈経済〉という物差しでしか判断しなくなっていた。だから、与えられたサービスに文句だけ言う〈消費者〉に成り下がって、自分たちの住む社会に責任を持って関わるべき〈市民〉であることを忘れてしまっていたのです」と。この言葉はソックリ日本人に投げかけられているような気がする。消費税10%にあげる政策にしたって、政治家から出てくる言葉は経済政策のことばかり、批判する野党や国民の声も似たようなものだ。日本の未来を展望する提言はマスコミは取り上げない。「今だけ・カネだけ・自分だけ」の狂ったゲームに狂想していると日本は壊れてしまう。「四半期利益でなく、100年先も皆が共に健やかで幸せに暮らせる方に価値を置き、強欲主義から脱却しようとしている国民の姿こそこれらの法の運用を正常化する羅針盤だ」と、これは堤さんのからのメッセージである。

 熊本出身の“ヒロシです”の言葉を思い出した。「視力はいいけど未来が見えないのです。足腰はいいけどドブに落ちました。普通に喋ってもアベさんは聞いてくれません」・・・。これまでの日本は曖昧な言動でもどうにか生きてこれた。しかし、グローバル化していくこれからの社会、若者には他国の人との共存が求められる。「目的」と「手段」を混同せずにキチンと議論し、自らの考えを提言する能力を培って欲しい。若者よ!貴方の意見は“糠に釘”ではない。都合悪い施策や提言には本気で怒って欲しい。

2018年11月1日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第169号

 

                 『心の筋肉を鍛える』      

 学校長 荒木 孝洋

 

 朝6時、外は真っ暗、急速な秋の深まりを実感する。気温も高からず低からず、実に過ごしやすい気候だ。食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋と呼ばれるのも納得できる。とりわけ、“灯火親しむの侯”秋の夜長は読書には最適な時期だ。「本を読むと若くなる」とか「本を読むと未知を読む能力が磨かれる」と言われるが、軽いスポーツや散歩が筋肉や心肺機能を高めるように、読書は想像力を膨らませ創造力をかきたて心の筋肉を鍛えてくれる。

 プロ野球ドラフト会議で中日に指名された大阪桐蔭高校の根尾選手は“文武二刀流”の読書家だそうで、愛読書は、東大生・京大生にもっとも読まれている外山滋比古氏の「思考の整理学」と、渋沢栄一氏の「現代語訳・論語と算盤」だそうだ。父親も偉い、子どもの健全な成長を願い、毎月20冊の本を寮に送り届けていたそうだ。テレビでの記者会見を聞いていると、引き締まった顔立ちで、自らの意志をシッカリと表明し既成の枠にとどまらないスケールの大きさを感じる。優れた本と呼吸し心を豊かに働かせている人は、自然に目の輝きが増して、自信ある引き締まった顔立ちになるのかもしれない。アメリカの大学の研究者が、学生を対象に「本を読むことで脳にどんな反応が起きるのか」調べたところ、読書をしている期間だけでなく、読み終わって数日経っても、脳の言語、記憶、聴覚を司る部分が活発に活動していることが明らかになったそうだ。たしかに、本を夢中で読んでいると、次第に登場人物に成りかわって自分が行動しているような錯覚に陥ることがある。文字を目で追っているだけなのに実際に体験している時と同じように脳が反応しているのかもしれない。

 しかし、最近はどの調査でも「読書離れ」が指摘され、小中高と学年が上がるほど読まない割合が高くなり、大人の読書離れも顕著になっているようだ。日本人の脳の劣化が心配になってくる。数学者であり文筆家でもある藤原正彦氏の言葉を思い出した。読書の効用について次のように述べておられる。「読書は時空を越える愉しみである。知識を得る、感動を得る愉しみである。人間は知識を得たい動物である。脳はそのようにできている。人間は感動したい動物である。脳がそのようにできているからである。だからこそわざわざ悲しい物語を買って読んだり、入場料を払って悲しい映画を見に行く。足は地を歩きたい、手は物を掴みたい、目は物を見たい、耳は音を聞きたい、のと同様である。愉しみというのは不思議なもので、経験する前は決して分からない。初めて食べるまで餃子のうまさも見当つかないし、モーツファルトやビートルズのすばらしさも聞くまでは分からない。しかし、この愉しみを知っている人は、それをまったく堪能せずに死んで行く人を不憫に思うであろう。餃子やモーツファルトはともかく、読書の醍醐味を知らずに死んでしまう人がいたら不憫どころではない」 と。

 人の一日は二十四時間しかない。従って新しいモノが登場したり新しいことを始めると従来使っていた時間から何かを削らなくてはならない。半世紀前に登場したテレビの時もそうであったが、ケータイやインターネットの登場で使う時間も情報発信のスタイルも一新し、新たな時間配分のステージに向かうこととなった。朝から深夜までスマホを使って絶えず誰かと話をしたりゲームをしたり、さらには、メールチェックと返信で落ち着かない若者は与えられた二十四時間から何を削っているのだろうか。人や書物と対面しながら自分の『心の習慣』を身につける大切な時間が削除されているような気がしてならない。しかも、若者の読書離れはスマホばかりが原因でもないようだ。本棚もない家庭で育った人も多い昨今、周囲の大人も読書をリスペクトしない、そんな風潮が蔓延する社会になったら日本も終わりだ。杞憂であればいいのだが・・・。 

2018年9月18日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第168号

 

                          『ジジイのつぶやき』       

学校長 荒木 孝洋

 

 今年の夏は本当に暑かった。40度を超える猛暑は『命の危険ライン』と言われ、ジジイ・ババアと呼ばれる我々高齢者世代にとってはことさら辛い日々であった。さらに、8月後半から9月にかけて台風と地震が日本列島を襲い、水害や山崩れ、川の氾濫で甚大な被害が出ている。昔はこんなに暑い日はなかった。せいぜい最高気温30度。ところが、人は利便性を追い求め、山の木を切り払いそこに宅地を造成したり、道路をコンクリートで埋め尽くし山奥まで交通網を整備した。逃げ場を失った熱や水が反乱を起こすのは当たり前だ。異常気象の一因はそんな人間のエゴにもありそうだ。天罰かと思ったりもする。

 ところで、来年から元号が新しくなるが、新しい元号と昭和、平成を合わせると、私は三つの元号を生きていくことになる。昭和という時代は、昭和20年の終戦を境とした戦前・戦中と戦後、元号は同じでも全く違った時代だったようだ。先人から戦前・戦中の苦労話を聞くと、平成と比べて60余年の昭和の中身は奥深く濃密な気がしてならない。昭和の歴史を紐解くと、日本は日清・日露戦争、それに第一次大戦と負け知らずだったから、図に乗って世界列強を相手に太平洋戦争に突入した。結果はアメリカをはじめとする連合国に完膚なきまでに叩きのめされ、昭和20年8月15日にポツダム宣言を受け入れ終戦を迎えることとなった。この日までが昭和の前半。昭和21年生まれの私は戦後世代と呼ばれ、戦争の体験がないから昭和は半分しか生きていないことになる。その戦後は敗戦の焼け跡から始まる。幼少時を思い出すと、進駐軍からチョコレートをもらったこと、脱脂粉乳の給食、自給自足の貧しい食事、継ぎ接ぎだらけの洋服、公役と称する村人総出の共同作業、娯楽は映画とラジオとお祭、高校進学率も40%(昭和25年)・・・しかし、日本人は貧しい生活の中でも誇りを忘れずに、寄り添いながら『知足利他(満足と感謝)』の精神で国を立て直してきた。戦後のめざましい日本の復興と高度成長は世界に類を見ない快挙かもしれない。

 一方、平成の30年間は比較的穏やかであったが、東日本大震災(H23)と熊本地震(H28)の恐怖体験は忘れられない。熊日新聞に『平成を生きて』と読者の声が連載されているが、それぞれの方の人生模様を拝読しながら、我が人生も重ねてみた。42才~71才、教師生活も後半戦。この間、担任はたったの4年間、主任や管理職として生徒から少し距離のあるところで過ごすことになった。猪突猛進だった若い頃と違い、年相応にいくらか知恵がついたのか、教育施策の変化に戸惑いながらも地道に教育活動を推進することができた気がする。しかし、時間の経過の中で、ふと、平成と昭和の違いを実感することがある。それは『生き方』の違いだろう。行方不明の幼児を発見したスーパーボランティア尾畠春男さんが世間から喝采を浴びているが、戦後の復興期には珍しいことでも何でもなかった。田舎では牛が一頭でも行方不明になれば村中総出で捜したものだ。しかし、想定外のとんでもない事態も発生している。張り巡らされたカメラによって個人情報はツツヌケだし、スマホはイジメを誘発し子どもの世界は様変わりした。スポーツ界では若い選手たちが“どん”と呼ばれるボスに牛耳られ、スポーツマンシップはどこへいったやら。政治家も官僚も企業人もみんな八百長、インチキ、嘘つきばかり。『記憶にない』とか『忖度』がまかり通り、武士道精神は雲散霧消の危機だ。

 愚痴ばかり言ってると、「発展性がない」と若者から叱られそうだが、時代っていうのは70年だろうと何百年だろうと脈々と繋がっている。熊本動物園の資料館では、戦時下でやむなく殺された7才のインド象エリーの話がビデオで流されている。戦争の悲惨さだけでなく、直接惨殺に関わった人々の苦悩と悲しみがズシリと伝わって涙が出てくる。戦争の話ばかりではない。昭和には今の日本に繋がるエッセンスがいっぱい詰まっている。この先長くない高齢者のジジイ・ババアは「昔は良かった」と、ノスタルジックに喋るばかりではなく、大事な話をキチンと若者に伝えなくてはならない。私のモットーは「若者といっしょに夢を語る」、もうしばらくは、元気な若者といっしょに日本再生の夢を語りたい。