学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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2020年5月19日

生徒および保護者の方々へ 校長室から5月号                         

学校長 竹下 文則

 

 新型コロナウィルスの感染拡大により、日本中、そして世界中が大混乱をしています。本県でも国の緊急事態宣言を受け、休校の延期が続いています。令和2年度1学期始業式を去る4月8日に、入学式を4月9日に開催し、登校日以外は家庭学習となっています。ゴールデンウィークも「ステイホーム Stay Home」を合い言葉に不要不急の外出自粛が求められました。これまで、経験したことがない事態となっています。ただ、ここに来て、ようやく感染者数が減少傾向になり、本県でも発生経路の不明な感染者は出ていませんし、感染者そのものも出なくなっています。これから、少しずつ社会生活が元通りになっていくのを期待しているところです。学校も5月11日から再び登校日を設定し、時差・分散登校で学習指導等を進めています。生徒諸君が各自の責任を自覚し行動してくれているおかげで光が見え始めています。徐々に学校再開に向け取組を広げていきたいと思っています。登校日の朝、先生方が廊下の窓を開け、登校する道路の掃除や草取りをしていただいている姿を目にします。本校に来て一月あまりですが先生方の生徒諸君への思いが伝わってきます。

 さて、高校3年生は、県高校総体、総文祭が中止となる一方で就職や進学等のスケジュールも迫ってきており戸惑いも多いと思いますが、部活動においても、学習においても今できること、やるべきことを誠実にやり抜くことであると思っています。これは本校生すべてに言えることだと思っています。

 私たちも「降り止まない雨はない」との思いで、勇気と元気を出して生徒諸君・保護者の皆さんとともにこの難局を乗り越えていきたいと思います。

2020年3月19日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 最終号

 

                                      『エピローグ』     

学校長 荒木 孝洋

 

 文徳にご縁を頂き13年、多くの方に支えられて充実した日々を過ごすことができたが、この3月でもってフィナーレを迎えることとなった。齢73歳、間もなく後期高齢者である。剛毛で毎朝ドライヤーを使い悪戦苦闘していた頭髪も減る一方、残った細い髪の毛も風が吹くと飛んでしまいそうだ。歯も目も足腰もすべて劣化し記憶力も怪しくなってきた。誰が見ても老人である。振り返ると、51年の教職生活と小・中・高・大学16年の学校生活を合算すると67年間を学校という場所で過ごしたことになる。時間にしてこれまでの人生の92%にあたる。学校はコロニーにも似た施設だから世間知らずのまま随分と長居をしてしまったものだ。全力投球の51年間だったが、「何か役に立つことができたのか?」と問われると汗顔の至りだ。支えお付き合い頂いた多くの皆さまの顔が浮かび「お陰さまで」と、ただただ感謝するばかりだ。

《横浜市立盲学校》

 振り返ると、22歳、大学を卒業した直後の昭和44年4月に教職に就いた。最初に赴任したのが横浜市立盲学校である。着任直後に、天丼を注文しておきながら校長先生のカツ丼を食べてしまい、「それは私が注文したものですよ!」と大目玉を食ったことを思い出す。教職の初舞台である盲学校での生活について少し触れてみたい。生まれて初めての都会での生活、しかも、視力障害者との出会いも初めて、不安ばかりが増幅する中でのスタートであったが、ここで教壇に立った経験が私の教師像の原点になっている。盲学校には幼・小・中・高・専攻科・別科があり、3歳から60歳までの生徒が学んでいた。障害の程度も全盲・弱視・途中失明・盲聾の重複障害・知的障害などさまざまな生徒が在籍していた。中・高生と専攻科の数学の授業を担当した。目の見えない生徒に教えるのは初めての経験、全てが試行錯誤の連続であった。言葉では説明しづらい図形やグラフの指導は手作り教材、ヒモで作った教材を手で触らせながら教えたりもした。全盲の子供たちを互いにヒモで結んで富士山に登ったこともある。点字も必死に勉強した。下手くそな授業であったろうに、誰一人文句を言う生徒はいなかったし、優しく屈託の無い笑顔に支えられ実に充実した時間を過ごすことができた。わずか2年間であったが、資格試験や大学入試を目指した学習ではないのに真剣に勉強する姿に触れて、「学問とは何か?」「学ぶことで人生が豊かになる!」といった教育の原点を知ることができた。

《公立学校》

 その後、盲学校を含めて公立学校に38年間、勤務した学校が10校(横浜市立盲学校・横浜市立万騎が原中学校・甲佐高校・大矢野高校・鹿本高校・済々黌高校・人吉高校・熊本市立必由館高校・荒尾高校・玉名高校)。今でこそ、少子化で学校存続が危ぶまれる学校が増えてきたが、この時期は生徒の急増期でどの学校も定員を超える生徒が入学した。学校中に元気な若者の歓声が響き活気に満ちあふれていた時代である。個人的には、年齢と共に担任・主任・教頭・校長と立場が変わり、見える景色も関わる範囲も少しずつ変化してきたが、多くの生徒やその保護者、近隣住民の方々との悲喜こもごもの想い出がいっぱいある。特に担任時代・・・全ての子供を家庭訪問、女島のキャンプで夜中に水が押し寄せテントの大移動、クラス40人中28人国公立合格、不登校K君との出会い・・・挙げればきりがないが紹介するには紙面が足りない。

《文徳学園》

 平成19年3月に公立学校を退職し、4月からご縁を頂いたのが文徳中学校・高等学校。公私の違いに戸惑いながらも必死に走り続けた13年間。記憶をたどりながら振り返ってみたい。

 就任直後に理事長から二つの宿題を頂いた。そのひとつが、開校50周年記念事業(平成22年)に伴う“校舎改築”。本館・中央館・南館はコンクリートの劣化による危険箇所があちこちに散在し、“立ち入り禁止”の立て札とコンクリート片の落下物、傾斜と段差のある廊下や階段、数少ない女子トイレ、暗い照明、鉄枠の窓ガラス・・。傾斜のある敷地と周りの緑地を活かした設計“教室から緑の見える学校”をコンセプトにして1年間かけて青写真を作成した。悩みの種は敷地の真ん中を通る市の水路と頭上の高圧線。旧校舎の秀優館(1~3号館)との連結にも配慮しながら校舎をV字形に配置し、生徒の昇降口を水路をまたぐ形で4階に設置した。さらに、Ⅱ期工事として、生徒の移動経路を勘案し、4階の昇降口を基点として北側に校舎を、東・南に体育館・実習棟・駐輪場を配置して建築することとした。さらに、正面玄関付近は生徒送迎の車と登下校する自転車通学生の接触を回避するために一方通行の自動車行路を確保した。平成21年にⅠ期工事の4号館と5号館の校舎が完成し、Ⅱ期工事とした体育館と駐輪場が平成26年に、実習棟が平成27年に完成した。平成28年4月の熊本地震発生直前にいこいの広場と学園創設者中山義崇先生の銅像を建立し、足かけ9年に亘る改築工事の全てが完了した。昔の面影はすべて消えたが、緑に囲まれた素晴らしい学習環境が整った。

 もうひとつの課題が“工業高校から総合高校への脱皮”だった。キャッチフレーズに“全ての生徒のニーズに応える百貨店・・・“マイ東大・マイ横綱・マイ甲子園”を掲げ生徒を鼓舞した。なりたい自分“マイ◯◯◯”を実現するための具体的行動指針として提示したのが「文徳はあたまを鍛える道場である」というフレーズ、【あ】明るい挨拶と温かい言葉【た】逞しい体力と確かな学力【ま】真っ直ぐな心で前向きな行動である。職員の数値目標として、トリプル100(国公立100・崇城100・就職率100%)、ダブルゼロ(退学0、いじめ0)、プラスワン(もう1点、失敗してもワンチャンス)を掲げたがいずれも未達成である。感動の数々・・・学校改革の一環として立ち上げた東大・医進コースの一期生から東大合格が出たときの嬉し涙、何度もチャンスが在りながらとうとう甲子園出場が実現できず流した悔し涙。フィナーレは相撲部の全国制覇の感動の涙。結果はともあれ、子供たちが必死に学習したり練習している姿を見ると「完全燃焼!これでいいのだ」と納得できる。とはいえ、この13年間、校長として特別のパフォーマンスをしたわけではない。毎日、同じ時間に起きて、同じ時間に朝食をとり歯磨きをして、背広姿で家を出る。車に乗って同じ道をほぼ同じ時間をかけて学校に着く。学校が終わると、また同じ道を逆戻りして家に帰ることの繰り返し。片道8キロだから年間300日の勤務とすれば走行距離が6万3千キロになる。私学経営は、公立と違ってスピード感を持って学校改革ができるのが特徴である。しかし、生徒がいてなんぼの世界でもある。入試の時期になると眠れない日が続く。入学式に新入生が一人も来てない夢を見たこともある。

《教師を志したきっかけ》

 話は前後するが、教師になった経緯を振り返ってみたい。私は昭和21年、上益城郡の朝日村(今の山都町)という田舎に生まれた。戦後のドサクサの食糧難時代、街から疎開してきた叔父や叔母たちとの同居生活、農家だから米や野菜は自給自足できるが、タンパク質は卵か塩鰯ぐらいの質素な食生活。保育園もなく小中学校での給食もなかった。テレビがついたのが小学5年生、楽しみはもっぱらラジオ、母の愛好は広澤虎三の浪花節、一緒に何度聞いたことか今でも想い出す。夜は9時になると消灯、この頃から早寝の習慣が身についたようだ。高校になると、農作業の要員として一人前に扱われ、中学の時やっていたバレーも辞めて農作業が部活動になった。当時は、長男が農家の跡継ぎをするのは当たり前の時代、「長男がこんなことでいいのか?」と、後ろめたい気持ちで大学に入学した。「百姓は弟の孝二がする。先生になりたいなら大学に行っていい」と後押ししてくれた親父にはただただ感謝するばかりだ。4年間の学生生活は実に充実していた。今と違って、学生には優しい金銭的制度が在り、授業料が年間12000円、寮費(食費込み)が月額3000円。4年間仕送りゼロ、奨学金とアルバイト代でお釣りが来るくらいゆとりがあった。しかし、四年次は学生紛争で校舎は封鎖され卒業式は中止、しかも卒業証書は行方不明、後日事務室で頂くことになった。

 【敬愛する二人の恩師】既に亡くなられたが、尊敬する2人の先生を紹介したい。「こんな先生になりたい」と教師を志すきっかけとなった先生である。一人は小学5・6年生の担任だったM先生。「命の大切さ」を教えていただいた。子どもたちの貧弱な弁当を見ては“ご飯の友”を振り掛けたり、夜は下宿先に子どもを集めての勉強会をするなど、笑顔の絶えない優しい先生であったが、一度だけこっぴどく叱られた。起立した前の子の椅子を後に引いた。その子は座ろうとしたが、椅子がないのでひっくり返り後頭部を床に打ち付けた。それを見た先生は怒髪天を衝くの形相になり「死んだらどうするんだ。反省しろ!」と、水の入ったバケツを持たされ廊下に1時間立たされた。もう一人は中学1・2年の担任T先生。音楽の先生で、歌うのが苦手だった私に、楽器を持たせて「音楽は歌だけではないよ」と慰めて下さった。「勉強しろ」とは一度も言われたことはないが、誰も「イヤ」と反発できないほど勉強を強いられた。毎朝、英単語と計算問題が黒板にびっしりと書かれており、生徒は朝のSHR前に仕上げなくてはならない。遅刻したら0点。夕刻には採点して返却される。定期考査の日も休みなし。一年中である。英語と数学の基礎・基本を徹底して叩き込まれた。もちろん、クラス全員の成績が向上したことは間違いない。

《エピローグ》

 校長の仕事は、泥臭く汗をかいて、勇気と知恵を振り絞って、子供たちの人生の炎を燃やしてやることしかないと思っている。この13年間、毎月1回ブログを書き続けられたのも素直な子供たちがいたからだし、子供への期待や教育改革や教育事情についての紹介や思い・考えを述べてきた。長い間駄文にお付き合いいただき、しかも、数々のご助言や忠言、励ましを賜ったことに衷心より感謝申し上げます。低頭深謝!ありがとうございました。

 離任はしますが、“文徳は永遠に不滅です”(長嶋監督の言葉を借りて)。文徳学園はこれからも次代を担う若者の成長を精一杯支援し続けることでしょう。4月からは、私も「ドリーム・サポーター」の一員として文徳応援団になります。                   

令和2年3月

2020年1月16日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第181号

                          『いけいけドンドン』     

                                                                                                             学校長 荒木 孝洋

 高大接続の目玉のように言われていた大学入学共通テストの「国語・数学への記述式問題の導入」と「英語における民間資格・検定試験の活用」が頓挫した。確かに、記述式問題の必要性や英語の4技能(読む・書く・聞く・話す)の重要性は言うまでもないことである。しかし、ただ、それを共通テストに組み込むことに相当無理があった。文科省の事務方もそれはわかっていたはずだ。それでも、政策決定権者は違う決断をした。その後も、軌道修正の意見はあったに違いない。そうこうするうちに時は過ぎ、いつしか、「もう巻き返しは無理、かくたる上は規定方針の中で最善を尽くすべし」と切り替えたものの、異論続出、観念したかのように中止する。まあ、そんなところだろう。無関係の人は「まあ、どうにかなるだろう」と意見を言わないし、異論のある人も「和を乱す煙たいヤツ」と潰されたり放り出されたりしてはたまらないからブレーキをかけるのを躊躇する。“いけいけドンドン”の強風が吹くときに異を唱えるのは勇気がいるし止めるのが難しくなってしまう。
 丸山眞男氏の著書「無責任の体系」という本の中に、戦争勃発についての鋭い指摘がある。第二次大戦突入から敗戦に至る日本の意思決定の構図についての指摘である。【第一】現実を直視しない希望的観測。【第二】事ここに至っては後戻りできないと諦め、誤った政策を続ける既成事実への屈服。【第三】自分にそれを是正する力はないと自らの役割を限定する逃避。今回の入試改革の頓挫と酷似している。理屈を超えた大きな力で物事が動くときには危険が潜んでいる可能性を疑うべきだという指摘ではなかろうか。昨今の施策を見ていると、入試改革だけでなく、年金改革、働き方改革、中東への自衛隊派遣、IR法案など唐突で生煮えのまま“いけいけドンドン”と強引に進められているようで不安になる。教育改革もしかり。最近、特に気になるのが「GIGAスクール構想」だ。文科省のロードマップによると、23年度までにすべての小中学校の児童生徒に「1人1台」のタブレットなどの端末機器を整備し、20年度中に高速大容量の通信ネットワークを小学校から高校、特別支援学校のすべてに完備するとしている。この構想の発端は、2019年12月に公表されたOECDの学力到達度調査(PISA)の結果にある。日本の子供の「読解力」の低下、その主な原因のひとつは「デジタル読解力」の低さにあるとの指摘から、学校のICT機器整備を喫緊の課題と捕らえての構想のようだ。計画は良い、やる気も伝わってくる。しかし、本当に計画通り進むのだろうか?「何年度までに必ず何々する」といった、最初に年限ありきは頓挫した入試改革と相似形だ。考えなければならないことは山ほどある。自治体はついていけるのか?機器を管理し活用する立場の教員や学校への支援は十分か?未来図通りの効果的な活用が進むのか?セキュリティは大丈夫なのか?機器の故障はどうするのか?数年後の更新はどうするのか?など、どこまで続く????
 さらに、難題なのが子供たちの活用法だ。学校にネットワークが整備されると、子どもたちはタブレットもスマホも自由自在に使えるから、学習活動よりもゲームに熱中するのは火を見るより明らかだ。すでに大半の高校ではスマホの学校持ち込みは許可しているから、指導の困難さは実証済みである。まして、自制心が弱く興味関心の塊のような小中学生にスマホやタブレットを持たせたらどうなるか。ゲームはおろか、猥褻画像の検索も簡単にできるし、盗撮も心配しなくてはならない。とんでもない光景が学校文化になりそうだ。文科省は入試改革の失敗から正しく学ばなければならないのに・・・またもや同じ構図が見え隠れする。グローバル化したネット社会では機器の活用は避けて通れない。しかし、急ぐあまり、結果的に、大人と子どもの“いけいけドンドン”の知恵比べになっては元も子もない。 

2019年12月18日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第180号

 

                           『言葉が痩せる』      

                                                                                                                学校長 荒木 孝洋

 

 師走12月、月めくりのカレンダーも最後の一枚となった。一年を振り返り、往く年に別れを告げ新しい年を迎える準備をする時期である。学校の玄関には今年も文徳会(保護者会)とそのOB・OGの皆さんのご厚意によって門松が飾られた。文徳会では、子どもの健全な成長を願い「ドリームサポーター」をスローガンにした活動の一環として平成22年から門松制作が続けられている。

 ところで、あるTV番組で世間話のようなニュースを聞いた。プロ野球の某球団の監督が自チームの応援団に、打席へ向かう選手への応援歌は小学生も歌うので「お前でなければ誰が打つ」の「お前」を別の文言にして欲しい、と要請したのだという。これについて同番組が町で行ったインタビューでは、親近感や一体感を持って激励するには「お前」がいい、という意見ばかりだったそうだ。監督の意見にも、町の人たちの感覚にも一理あるが、言葉には多くの意味があり、話の前後関係や使う場面などによってニュアンスが変わるから言語を排除するのではなく、時と場合によって適切な使い方をする必要があると考える。 

 最近、日常使われる言葉の種類が、子どもたちの間で、というより社会全体で減る傾向にある気がする。仕事でのやりとりが電話や対話からメールに変化したことも要因のひとつであろう。メールは話し言葉のような気安さも含みながら、短文が要求されるから語彙が少なくてすむ。仕事ならそれでよいだろうが、どうも日常会話までメール風になっている人が増えているようで気になる。元来、思考は頭の中で言葉を駆使しながら行われるから、乏しい語彙力ではそれを通した狭い社会しか見ることができないことになる。つまり、言葉の省エネが過ぎると思考が単純化し人生の劣化を招くことになる。「言葉は身の文(あや)」という諺があるが、話し言葉はその人の人格や品位を表すという意味である。若い人の中には「すごい」「やばい」「まじ」「かわいい」などと単語を連発する人を見かけるが、そればっかりでは人格まで浅薄に見えてしまう。

 ところで、日本語の90%を理解するために必要な語彙数はおよそ一万語と言われている。英語なら3000語、スペイン語やフランス語は2000語足らずでもってその言語を90%理解できるそうだ。つまり、日常のコミュニケーションを円滑に進めたり文章を読んだりするために、私たち日本人はスペイン人の5倍の語彙を持たなくてはならないことになる。しかも、日本語には平仮名やカタカナ、漢字があり、それらを駆使して使うのはそう容易(たやす)いことではない。例えば、漢字の『令』を命令の意味に限定して新元号を批判した国会議員がいたが、『令』には「よい」とか「清らかで美しい」といった意味も含まれているのにそれを無視して使うと言葉が痩せてしまう。単語の連発や誤訳でもって結論へと進む議論などは分かりやすいかもしれないがどこか不気味である。また、自己賛美に単純化した言葉や憎悪に特化させた言葉を繰り返して人々を反射的な反応へと誘導する人もいるから、フェイクニュースを見抜く力も身につけなくてはならない。「たかが言葉、されど言葉」、言葉は大きな力を持つことを肝に銘じておきたいものだ。

 では、語彙力を高めるにはどうしたらよいのだろうか?・・・映画やドラマや演劇を見るとか落語を聞くのもいいが、最も手っ取り早く適切な方法は活字を読むことだ。国際学力調査(PISA)でも、小説や伝記、ルポルタージュ、新聞など幅広く読んでいる子どもの読解力は高いという結果が出ている。本に限らず、インターネットの記事でも新聞や雑誌など活字媒体に触れることが大切だ。そして、さらに大切なことはアウトプット、使わなければ語彙力は増えない。覚えた言葉をどんどん使って教養を高めたいものだ。「語彙が豊かになれば、見える世界が変わる」とも言われる。語彙を増やして人生を豊かで楽しいものにしたいものだ。

2019年11月11日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第179号

 

                  『摩擦がないと字は書けない』  

   学校長 荒木 孝洋

 私が生まれた昭和21年は終戦直後の混乱と物不足の時代。夢多いはずのピッカピカの小学生の頃、今のように新しい教科書が無償で渡されることもなかったし、購入した教科書は妹や弟に譲るから折り目もつけないほど丁寧に扱った。もちろん、教科書に字を書き込むなどもってのほかである。ガサガサして書けない鉛筆、今は使っていないざらざらの黒いちり紙のようなノート。しかし、それが当たり前だと思って大事に使った。書けばノートは破れ、鉛筆は舐めないと色がつかない代物だった。習字の練習には新聞紙を使い、チラシの裏紙を使って算数の計算をした。給食もなく、野菜の煮物と卵焼きに漬け物の質素な弁当を持参した。友達との(いさか)いが起こっても、その都度、先輩は大声で(たしな)めたり仲裁して仲直りさせてくれた。我慢する、あきらめる、食べものが自由に食べられない、そんなナイナイ尽くしの混迷した日常生活の中で、自分で生きる道を考え、自分で行動し、自分で生きていくことが求められたのが戦後の日本である。

 その後、物不足が少しずつ解消し国民に多くの自由が保証されるようになった。さらに時が流れ、1980年代になると、自由な風潮を「何でもOK」と曲解し、バイク暴走、喫煙、深夜徘徊などと自由奔放に振る舞う生徒や、「長髪禁止」の校則見直しなどを訴えて授業をボイコットする生徒が現れた。テレビでは金八先生が登場し、ある芸能人が自分の子供との戦いを描いた「積み木くずし」という本が売れた時代だ。この時期に、文科省は指導要領の見直しを行い、所謂、「ゆとり教育」というスローガンの新学力観を提示した。学校5日制が始まり、各教科の指導内容が精選され授業時間も削減され、学習状況の評価も知識の理解から学習の態度にシフトした。教師も指導者から支援者へと転換し、生徒の多様性を尊重し、生徒の自主性・主体性を尊重する教育こそ素晴らしいと謳うように変化していく。しかし、『自主』とか『多様性』という言葉は耳障りのいいキャッチフレーズだが、「自分の責任で将来を決めろ!」というメッセージだから自己責任が発生する。しかも、個人の主体性が尊重されるだけであって、自らの想いをどのように実現していくかは誰も教えてくれないから、結果として、不満や不足が増幅し、時間の経過と共に“長いものに巻かれろ”といった依存心の強い子供や学校を忌避する不登校の子どもが増えていくことになる。

 振り返ると、あの1980年代の子供たちのエネルギーは、なぜあんなにも大きく、強かったのだろうか?・・・推測するに、物心両面において(いびつ)に感じる不自由があったから自由に対する意欲が高まっていったのではなかろうかと思う。表面がツルツルした紙に字は書けないが、摩擦があるから字が書けるのと同じように、自由を獲得するには幾らかの不自由という摩擦が必要ではないのだろうか。制限された不自由の中で学び方を習得し、また、社会や集団生活のルールを形式から学び、自分の好きにしたい時にも自分を超えた何かに制限される、そんな経験をして初めて一人の人間になる。反抗期に、子どもが親を無意識に否定し親から自由になりたいと思うように、不自由であるからこそ自由になりたいという意欲が生まれ、自分で工夫する知恵が芽生えてくるのではなかろうか。

 本校には中学生もいるが、中学生は高校生に比べてその成長は日替わりメニューのようにめざましい。授業中友達にちょっかいを出して勉強の邪魔をしたり、友達との諍いで暴れては窓ガラスに衝突する生徒も、失敗を繰り返しながら学年が上がるにつれて見事に変身する。2・3年生になると、駄々をこねる1年生を見て「俺たちもあんな時期があったよナ!」と実に冷静である。周りの友達や先生から諫められたり励まされながら成長していく姿は今も昔も変わらない。リモコン・センサー・自動運転など利便性は次々と獲得してきたが、子どもの成長に必要な大切な何かが失われている気がする。それは、デッパリをこする砥石と悶々とした試行錯誤の時間である。大人の誰もが、若い時は「ツマズキ」を通して成長してきた経験を持っているはずなのに・・・叱ること・見守ることが下手になったようだ。怒髪天を衝く叱責の声、失敗を優しく見守る温かいまなざしはどこに消えたのだろうか?いずれも物質文明にドップリと浸かりきった日本人の劣化現象かもしれない。台風被害の復興・復旧と共に人間らしいゆとりある心と温かみのある言葉の再構築も急務である。