学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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2019年10月25日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第178号

 

                                      『黒船襲来』          

                                                                                                        学校長 荒木 孝洋

 10月になったというのに、関東から北日本にかけて猛烈な台風が襲来し大混乱だ。15号は暴風雨を伴って千葉を襲い、19号は関東から北陸にかけて河川が決壊したり越水したりして大水害をもたらした。テレビの報道でしか知ることができないが、亡くなられた方が80名を越えるなど被害甚大で気の毒になる。被災された方々の心中と被害の惨状を思うと心が痛むばかりだ。熊本地震でもそうだったが自然災害の痕跡は惨すぎる。被災地の復興・復旧をただただ祈るばかりだ。

 ところで、大学入試の改革も突風を伴った台風襲来の様相で、学校現場はその対応にアタフタしている。英語の民間試験の導入という黒船襲来におののいているのだ。大学の共通テストは昭和54年の共通一次試験から始まり、その後、改善を加えながら大学入試センター試験に移行し、安定した選抜方法として広く受験生にも受け入れられている。問題の難度も程良く高校教育とマッチングし公平な試験として受験生からも好評であったのに・・・なぜ変える必要があるのだろうか?そもそも、この改革は高大連携の在り方(大学教育・高校教育・高大接続の大学入試)の3つの改革から始まったのだが、いつの間にか大学入試改革のみに矮小化されたから混乱を招いているのだ。グローバル化に対応し「英語のスピーキング力を強化」の必要性は理解できるが、それは高校教育や大学教育の在り方を改革すれば解決するのに・・・全員が民間試験を受けなければならないような愚策なんてトンデモナイ発想だ。

 提示されている「大学共通テスト」(新テスト)は現在の高校2年生が受験する2021年入試から実施される。改革の骨子は、国語と数学に記述式が加わることと、英語には民間試験が導入されることだ。国語と数学の記述問題の採点の公平性については一定の改善策が提示されているが、英語の民間試験については課題があまりにも多すぎてあきれ果てるばかりだ。全国公立高等学校校長会や私学の中高連、さらには現役の高校生からも時期尚早との声が発せられ、反対の声が彷彿しているが、文科省は着々と実施に向けた施策を進めており、それに対して、学校では泥縄式に対応している。今回の英語民間試験導入の問題点を整理してみた。

 【公平性が確保されるか?】英語の検定には英検やTOEFLをはじめとして様式も問題内容も異なる試験が多数ある。今回の改定案ではどの試験を受けるかは受験生が選択して受験することとなっている。そして、個人の成績はSEFRという目盛りでA1からC2までの6段階に分類され、IDカードを通して大学に送付される。そもそも、別々の試験を受験した成績を比較して学力評価を公平に行うことが可能なのだろうか?

 【高額の受験料】受験料は資格・検定試験や試験のレベルによって大きく異なる。現在提示されている金額は5800円から2万3500円。最も高い受験料の試験を2回受験すると5万円近くになる。さらに、宿泊を伴う受験生は受験料に加えて宿泊費も発生することになる

 【不透明な試験への不安】①試験会場も試験日も未定。英検は熊本市と人吉市で、GTECは熊本市と八代市で行われることがつい先日決定したが、実施日は未公表だから次年度の学校行事も決められない。②大学によって求める英語力が異なり、出願資格なのか、入試の成績に加味するのか千差万別の試験である。まだ受験校を決めていない生徒にとっては、どのレベルの試験を受けたらよいのか迷うだろうし、試験によっては不合格であれば未受験と同じ扱いになる。そんな中、すでに英検は申し込みが始まっている。

 そもそも入試に民間試験が必要なのだろうか?。受験勉強によりスピーキング力が瞬間的には上達するかもしれないが、使う機会のない人の英語力は3ヶ月もすれば元の木阿弥、すっかり忘れてしまうだろう。現に、英語のヒアリングテストが始まってから日本人の英会話能力が極端に向上してという報告は聞いたこともない。人間は必要に迫られれば必死に勉強し英語を喋れるように励むだろうし、むしろ、高校時代は文法などの基礎力をきちんと身につけておく方が、後々よっぽど役に立つのではなかろうか。文法や構文も理解できていない英会話は子どものよちよち歩きと一緒、喋るだけならオームでもできる。

2019年9月11日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第177号

                                           

                    『ノーアウト1塁』      

                                                                                                     学校長 荒木 孝洋

 

 相撲や野球ファンが“巨人・大鵬・卵焼き”と揶揄された時代(1960年代)に育った私は大の野球ファンである。プロ野球も大詰め、残り10試合前後となり、セ・パ共に興味津々たる優勝争いが続いている。テレビを見ていると、若手の活躍が目立つ。物怖じしない溌剌たるプレーに感動する。入団2年目の九学出身の村上選手もその一人。彼が所属するヤクルトは優勝争いには加われそうにもないが、鋭いバットの振りが魅力だ。ホームラン・打点の両部門でトップを争い新人王の有力な候補である。熊本出身だけに応援にも力が入る。『ガンバレ村上!』

 ところで、イチロー選手が引退してもう半年近くもたってしまったが、記者会見での彼の発言は、いつも含蓄ある言葉が多く啓発される。引退の記者会見で「野球の魅力とは?」と問われて、彼は「団体競技なんですけど、個人競技なんです。それが面白い。個人として結果を残さないと生きていくことができない。本来はチームとして勝っていけば、チームのクオリティは高い。でも決してそうではない。あと同じ瞬間がないこと。必ずどの瞬間も違う。これは飽きが来ないですね」という回答。この言葉を聞いて、野球は教職にも当てはまるのでは、と感じた。学校は外から見ればひとつの組織体であり「文徳高校はこんな学校だ」と評価を受けるが、普段の教育活動の中心となる授業は、教室を場とした各先生たちによる個人の営みで成り立っている。野球では、ピッチャーとバッターは打つか、討ち取るかの壮絶なバトルだが、授業は真逆、同じバトルでも、先生はどう教えたら生徒が理解できるかの真剣勝負である。しかし、野球との共通点も多い。同じ先生が同じ単元を同じ学年に教えても、教室での生徒とのやりとりには同じ瞬間は表れないし、試験をすれば結果にも差が出る。それでも、教師は良い授業をしようと思うから、生涯、創意工夫しながら試行錯誤を繰り返す。それは、常に自分との戦いをしてきたイチロー選手の心境にも似ている。

 時折、大谷選手を見たくて大リーグのBS放送を見るが、米国の野球は近年データ重視で、極端な守備シフトを敷く試合が目立つようになった気がする。戦法も変化しているようだ。イチロー選手はこの現象について、「大リーグの野球は近年頭を使わなくてもできる野球になりつつある。データ重視のこの流れは当分止まらないでしょう。本来、野球というのは、頭を使わないとできない競技なんですよ。でもそれが違ってきているのは、どうも気持ち悪くて。日本の野球は頭を使う面白い野球であって欲しいと思っています。大切にしなきゃいけないものを大切にしてほしいと思います」と答えています。近年、教育の場にもタブレットや電子黒板が導入され、授業のスタイルがスマートに変化してきている。しかし、スポーツも教育も最後は人と人との対決やプロセスが肝要だ。人工知能(AI)をどのように活用しようと、最後は総合的な人間(教師)の判断で勝負や成果が決まるのではないか。フェイスtoフェイスが軽んじられ、スマートな文明の利器に振り回されていると、必ずしっぺ返しを食うことになる。

 『ノーアウト1塁』、送りバントかヒットエンドランか?、はたまた盗塁か?ボールを投げる瞬間まで駆け引きが続く。この緊張感がなんともいえないのが野球の醍醐味。授業もしかり。答を教えるだけが授業ではない。「先生が次に何をしゃべるか?」と生徒は固唾を飲んで待ち、先生は、「生徒がどんな答えを提示するのか?」とワクワクしながら回答を待つ。スポーツも勉強も“Simple is best”。野球ならボールとバットとグローブがあれば十分、教育も同じ、紙と鉛筆と言葉があればOK。過度なデータ重視やエビデンス重視には、落とし穴があることを忘れてはならない。

2019年9月2日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第176号

                                           

                  『多様化という名の画一化』    

                                                                                                        学校長 荒木 孝洋

 

 今年の夏も暑かった。連日30度を超える茹だるような熱帯夜にクーラーはフル稼働。一転、ここ数日の長雨は秋到来の予感、火照った体が一気に平熱に戻った。佐賀平野では豪雨による被害も続出しており、気候の変動におののくばかりだ。学校では26日から二学期が始まった。始業式は、21年ぶりにインターハイで優勝した相撲部の報告会から始まった。全校生徒から万雷の拍手で祝福され、キャプテンの草野君が「チームワークと皆さんの声援のお陰で優勝できました」とお礼のメッセージを述べ全校生徒の応援に謝意を表した。相撲部は、この夏、十和田全国選抜大会でも優勝し、8月末の宇佐大会の連覇も目指しています。

 ところで、2021年度大学入試から選抜方法が大きく変更される。変更点は①英語の民間試験の導入②共通テストの記述式の導入③調査書重視の3点である。そもそも、今回の入試制度改革は「学力の3要素(◆知識と技能◆思考力・判断力・表現力◆多様な人々と協働して学ぶ態度)を、どのような試験方式で入学するにしても多面的・総合的に評価する」ことを目的として提言されたものである。しかし、『多面的・総合的』と言えば聞こえはいいが、その内実は、誰もが共通テストを受け、誰もがマークシート対策に加えて記述式対策をしなければならなくなり、誰もが英語の民間試験の受験料を払わされ、誰もが調査書の記載内容に在学中から神経を使うことになる。これは、むしろ入学選抜方法の多様化ではなく、多様な選抜方法をすべての受験生に課すことを一律に強いる典型的な画一化であるといえる。しかも、今回の改訂については、提言された当初から疑問が彷彿している。(英語の民間試験については)スピーキングテストを受験生に一律に課すべきかどうか?視点が異なる業者テストを同一評価基準で差異を判断できるのか? (記述式共通テストについては)数十万人の規模になる記述式問題の採点を誰がどうやって公平に、しかも短期間に行うのか?(調査書の充実については)高校入試の内申書選抜が、中学生の生活全般を受験に結びつけてしまうことからさんざん批判されてきたことを全く顧みた形跡がない。個人情報の大量流出の危険性も大きいなどである。

 私感だが、現在実施されているセンター試験は練られた良問が多く変革の必要性を全く感じない。例えば、英語の長文問題は文法力がないと解けないし、むしろ、これからは外国との交流もオーラルよりメールでの交信が主流となるであろうから、グローバル化にも十分対応できる問題だと思う。高校教育での上滑りのオーラル偏重は学力低下を招き、単語も知らず、構文のルールもわからない生徒を増やすだけで英語教育にはマイナスになるだろう。一方、数学も論理的思考が問われる出題が盛り込まれており勘では解けない。あえて記述問題を織り込む必要はどこにもない。また、高校での活動実績を表記した調査書重視に至っては、現在も一部の入試を除いてほとんど活用されていないのが実情である。それをさらに詳しい『eポートフォリオ』作成を生徒に課そうとする意図は何なのかわからない。子供たちが自分に都合の悪いことを書くはずがなかろうに・・・。

 本来、大学入試は大学で学ぶ力があるかどうかを測るのが目的であり、各大学は実施時期や試験内容に制限はあっても、様々な入試方法で入学者を選抜すればよいはずだ。40年前の東京農大の推薦入試を思い出す。(受験した生徒の話だが)俺は生物(ヤッター俺の得意な理科だ!)、隣の生徒は国語、その場で配られた問題を解く。要項には「総合試験」と表記されていた。入試を全国一律の方式にしなければならない理由はどこにもない。試験科目は、大学で設定すればいいし、記述式を主体とする選抜があってもそれでいいと思う。もちろん、会場で初めて試験科目がわかるこんなアバウトな試験もOKだ。小泉純一郎さんではないが、「人生イロイロ!入試もイロイロ!」。統一性のない試験だから模試結果に振り回されることもないだろう。かえって、授業中心の高校教育が充実するような気がする。多くの大学関係者も変革すべきは入試ではなく、教育内容だとうすうす感じているはずだ。

2019年6月25日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第175号

 

              『三つのたいに応える文徳中学校』    

                                                                                                              学校長 荒木 孝洋

 

 熊日新聞に「わたしを語る」という記事が連載されている。毎回、熊本にご縁のある方々の人生模様が掲載され、記事の端々にその人の生き様とか人生観が滲み出ており啓発される。今回は「熊本外国人妻の会」会長の田代クリスティーナさん(南米アルゼンチン生まれ)の「郷に入らば・・・」のタイトルの記事が掲載されている。18回目の紙面では日本と外国の教育の違いについて述べられていた。共感する部分が多かったので抜粋して紹介する。

 わたしが熊本に来た時、上の子は中三でした。いつもまわりの人達から、「受験は大変でしょう。どこの高校を受けるの」という質問をされました。これは子どもを必要以上に不安がらせますし、自信もなくさせます。・・・日本の中学生は塾に通っている人が多いようです。外国には塾はありません。学校があるのに塾があるのは不思議です。部活もちょっと厳しい。週3回くらいの、楽しみながら活動できる部活があれば、もっともっと入部者も増えるのではないでしょうか。子どもは、学校、部活、塾と忙しく、遊んだり、自分で考えたりする時間を十分持てないようです。その上、親や友達と話す時間も少なくなれば、アンバランスな人間が育つのではないでしょうか。外国では中学生は、もっと家族や友達と遊ばせます。・・・勉強はもっと楽しくやるものだと思います。まずは、心豊かに育ってほしいものです。猛勉強する割には、しつけ、生活上のルールやマナーを教えることにはあまり熱心ではないようにも感じます。本などによると、日本の家庭は以前は厳しくしつけていたようですが、最近は学校任せなのでしょうか。全体で言えば、過干渉、あるいは過保護気味かなと。大学の入学式に親が同伴するという話を聞きますが、私の経験からは考えられないことです。・・・以上抜粋して紹介しましたが、ふと思いました。クリスティーナさんが文徳中学を見られたら、「熊本にもこんな教育をしている学校があるのか?」と感動されるのではないだろうかと。 本校は中高一貫の学校ですから高校受験がありません。「どこの高校受けるの?」と悩む必要もありません。授業中心、塾に行く生徒はいません。学校は朝8時の「読書の時間」で始まります。授業指針は『進度より深度』、じっくり・深く学び、わかるまで勉強します。公立中学と違い授業時間が多くとれるから、時には、高校で学ぶ内容まで発展することがありますが、不満を言う生徒はいません。大半の生徒が中3で英検準2級か3級を取得し、中には2級に合格する生徒もいます。また、放課後、週に3回は全員が部活動をし、2回は理解が不十分な生徒に補習をします。家族とふれあう時間を確保するために5時30分には帰途につきます。学ぶ環境も快適です。中庭は全天候型のテニスコート、廊下は教室分くらいの広さがあり、休み時間には生徒の歓声が校長室まで響いてきます。昼食は全員揃って寮の食堂で取ります。弁当持参、作ってもらえない日は寮の350円の定食、和気藹々(あいあい)と実に和やかな雰囲気の時間です。6年後には全員が大学に進学しますが、進路選択の特徴は、「目標設定が早いこと」「受験に失敗しても再チャレンジする生徒が多いこと」です。「腐らず・威張らず・めげず」の精神でチャレンジするから、浪人しても志を持ち続け、毎年、東京大学・慶応大学や医学部などの難関大学や地元熊本大学や崇城大学薬学部へ合格します。文徳中学校は、生徒の三つの「たい」に応える教育活動をします。

  1. 知性と感性を磨き、信頼される人間になりたい

 ②多くの体験や出会いを通して、人間として大きく成長したい

 ③自分の役割を発見し、自ら行動し、社会の役に立ちたい

「もっと勉強して自分を伸ばしたい人」、「再チャレンジして自分を変えたい人」大歓迎です。

2019年6月4日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第174号

 

                          『なぜ?・どうして?』     

                                                                                                        学校長 荒木 孝洋

 

 暦の上では芒種(ぼうしゅ)、田植えが終わり、間もなく本格的な梅雨の季節を迎える。降り続く雨と湿気の多いジトジト感に気分がめいるが、紫陽花は一服の清涼剤、この季節によく似合う花だ。鎌倉に明月院、別名、紫陽花寺とも呼ばれるアジサイの名所がある。私が訪れたのは50年前、雨の中、参道を埋め尽くす数万本のアジサイと寺院とのコラボレーションがなんとも言えず素晴らしい。今でも脳裏に焼き付いて離れない。梅雨どきの憂鬱を振り払うように咲く花、青、ピンク、白、どの花も淡く鮮やかに濁りのない色をつける。雨に濡れても、日差しを浴びても、曇の空の下でも、いつも明るく私たちを迎えてくれる。アジサイは土壌の性質によって色が違い、咲いてから散るまでの間に花の色を変えるから、花言葉も「移り気」とか「無情」などとマイナーな言葉が多い。つゆ空を淡く彩るアジサイは健気で可憐な夏待花、熊本にも名所があちことにあるから是非堪能して頂きたい。

 ところで、七変化と言われるアジサイ以上に変化が激しいのが、昨今の教育改革、矢継ぎ早な変革に戸惑うばかり。「知育偏重」から「生きる力の育成」と言われ、授業の在り方も「答えを教える教育」から「問いを生む教育」へと、アクティブラーニングへの転換が求められている。しかし、方向転換はそうたやすいことではない。特に、授業で発する「問い」は日常生活の疑問符とは違うから、慎重に扱わないと授業を台無しにしてしまう。例えば、「元号『令和』にはどんな願いが込められているか?」という「問い」があるとする。答えは「???」。願いを込めた主体が誰であるかによって答えは異なるから、答えは「???」となってしまう。『令』を「良い」とか「素晴らしい」と強調する人と、命令のように「命ずる」「掟」と考える人とではどちらも立場の違いを競い合っているだけで、永遠に正解は出ない。もしも、この問いが「新元号『令和』にあなたはどんな願いを込めますか?」だったら、主体が自分だから答えることができるだろう。さらに、「問い」には誘導や前提があるから気をつけなければならないこともある。例えば、「幸せは遠くにあるか?近くにあるか?」という問いには「幸せはどっかにあって捜すもの」という前提があるから、それに気づかなければおかしな論争になってしまう。これからの時代を生きる若者たちには、「問い」を疑い、自省しながら、自らの「問い」を生むことを学び、「問い」に生命を与えていく楽しさを味わって欲しいと願う。この学びこそアクティブラーニングそのものだ。

 ところで、人類未踏の超長寿社会の道を日本は突き進んでいる。熊日新聞によると、統計的に死亡者数が最も多い年齢は女性93歳、男性87歳。女性の2人に1人が、男性の4人に1人が90歳まで生きるそうだ。「人生100年」が夢でない時代に突入した。私も古希の坂を越え老いの仲間入り、若い頃と違って、「老後に備えて貯金は幾ら必要か?」と問われるとドキッとする。さらに、「長生きはめでたいか?、恐るべきことか?」などの愚問には答えに窮する。ピンピンコロリを願っても、100まで生きれば足腰は弱り、ヨロヨロ・ドタリの最晩年期が訪れる。生き甲斐探しも強制される世の中、「趣味や友だちがいないと早死にします」などと、不安を増幅させるマスコミの洗脳にも耐えながら、老いの坂を一人で生きていかねばならない。

 アジサイは、花期が長く枯れても花弁の形を崩さないことから「辛抱強さ」を表すとも言われている。老いと共に身体の動きが緩慢になっていくが、枯れても花弁の形を崩さないアジサイのように、「辛抱強く」、心だけはワクワク・ピンピンさせながら歩みを続けられたら本望だ。「問い」は好奇心の発露、生きてる証、「なぜ?・どうして?」っと、子どものように「問い」を連発しながら未踏の老いに挑戦したい。