学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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2020年03月の記事

2020年3月19日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 最終号

 

                                      『エピローグ』     

学校長 荒木 孝洋

 

 文徳にご縁を頂き13年、多くの方に支えられて充実した日々を過ごすことができたが、この3月でもってフィナーレを迎えることとなった。齢73歳、間もなく後期高齢者である。剛毛で毎朝ドライヤーを使い悪戦苦闘していた頭髪も減る一方、残った細い髪の毛も風が吹くと飛んでしまいそうだ。歯も目も足腰もすべて劣化し記憶力も怪しくなってきた。誰が見ても老人である。振り返ると、51年の教職生活と小・中・高・大学16年の学校生活を合算すると67年間を学校という場所で過ごしたことになる。時間にしてこれまでの人生の92%にあたる。学校はコロニーにも似た施設だから世間知らずのまま随分と長居をしてしまったものだ。全力投球の51年間だったが、「何か役に立つことができたのか?」と問われると汗顔の至りだ。支えお付き合い頂いた多くの皆さまの顔が浮かび「お陰さまで」と、ただただ感謝するばかりだ。

《横浜市立盲学校》

 振り返ると、22歳、大学を卒業した直後の昭和44年4月に教職に就いた。最初に赴任したのが横浜市立盲学校である。着任直後に、天丼を注文しておきながら校長先生のカツ丼を食べてしまい、「それは私が注文したものですよ!」と大目玉を食ったことを思い出す。教職の初舞台である盲学校での生活について少し触れてみたい。生まれて初めての都会での生活、しかも、視力障害者との出会いも初めて、不安ばかりが増幅する中でのスタートであったが、ここで教壇に立った経験が私の教師像の原点になっている。盲学校には幼・小・中・高・専攻科・別科があり、3歳から60歳までの生徒が学んでいた。障害の程度も全盲・弱視・途中失明・盲聾の重複障害・知的障害などさまざまな生徒が在籍していた。中・高生と専攻科の数学の授業を担当した。目の見えない生徒に教えるのは初めての経験、全てが試行錯誤の連続であった。言葉では説明しづらい図形やグラフの指導は手作り教材、ヒモで作った教材を手で触らせながら教えたりもした。全盲の子供たちを互いにヒモで結んで富士山に登ったこともある。点字も必死に勉強した。下手くそな授業であったろうに、誰一人文句を言う生徒はいなかったし、優しく屈託の無い笑顔に支えられ実に充実した時間を過ごすことができた。わずか2年間であったが、資格試験や大学入試を目指した学習ではないのに真剣に勉強する姿に触れて、「学問とは何か?」「学ぶことで人生が豊かになる!」といった教育の原点を知ることができた。

《公立学校》

 その後、盲学校を含めて公立学校に38年間、勤務した学校が10校(横浜市立盲学校・横浜市立万騎が原中学校・甲佐高校・大矢野高校・鹿本高校・済々黌高校・人吉高校・熊本市立必由館高校・荒尾高校・玉名高校)。今でこそ、少子化で学校存続が危ぶまれる学校が増えてきたが、この時期は生徒の急増期でどの学校も定員を超える生徒が入学した。学校中に元気な若者の歓声が響き活気に満ちあふれていた時代である。個人的には、年齢と共に担任・主任・教頭・校長と立場が変わり、見える景色も関わる範囲も少しずつ変化してきたが、多くの生徒やその保護者、近隣住民の方々との悲喜こもごもの想い出がいっぱいある。特に担任時代・・・全ての子供を家庭訪問、女島のキャンプで夜中に水が押し寄せテントの大移動、クラス40人中28人国公立合格、不登校K君との出会い・・・挙げればきりがないが紹介するには紙面が足りない。

《文徳学園》

 平成19年3月に公立学校を退職し、4月からご縁を頂いたのが文徳中学校・高等学校。公私の違いに戸惑いながらも必死に走り続けた13年間。記憶をたどりながら振り返ってみたい。

 就任直後に理事長から二つの宿題を頂いた。そのひとつが、開校50周年記念事業(平成22年)に伴う“校舎改築”。本館・中央館・南館はコンクリートの劣化による危険箇所があちこちに散在し、“立ち入り禁止”の立て札とコンクリート片の落下物、傾斜と段差のある廊下や階段、数少ない女子トイレ、暗い照明、鉄枠の窓ガラス・・。傾斜のある敷地と周りの緑地を活かした設計“教室から緑の見える学校”をコンセプトにして1年間かけて青写真を作成した。悩みの種は敷地の真ん中を通る市の水路と頭上の高圧線。旧校舎の秀優館(1~3号館)との連結にも配慮しながら校舎をV字形に配置し、生徒の昇降口を水路をまたぐ形で4階に設置した。さらに、Ⅱ期工事として、生徒の移動経路を勘案し、4階の昇降口を基点として北側に校舎を、東・南に体育館・実習棟・駐輪場を配置して建築することとした。さらに、正面玄関付近は生徒送迎の車と登下校する自転車通学生の接触を回避するために一方通行の自動車行路を確保した。平成21年にⅠ期工事の4号館と5号館の校舎が完成し、Ⅱ期工事とした体育館と駐輪場が平成26年に、実習棟が平成27年に完成した。平成28年4月の熊本地震発生直前にいこいの広場と学園創設者中山義崇先生の銅像を建立し、足かけ9年に亘る改築工事の全てが完了した。昔の面影はすべて消えたが、緑に囲まれた素晴らしい学習環境が整った。

 もうひとつの課題が“工業高校から総合高校への脱皮”だった。キャッチフレーズに“全ての生徒のニーズに応える百貨店・・・“マイ東大・マイ横綱・マイ甲子園”を掲げ生徒を鼓舞した。なりたい自分“マイ◯◯◯”を実現するための具体的行動指針として提示したのが「文徳はあたまを鍛える道場である」というフレーズ、【あ】明るい挨拶と温かい言葉【た】逞しい体力と確かな学力【ま】真っ直ぐな心で前向きな行動である。職員の数値目標として、トリプル100(国公立100・崇城100・就職率100%)、ダブルゼロ(退学0、いじめ0)、プラスワン(もう1点、失敗してもワンチャンス)を掲げたがいずれも未達成である。感動の数々・・・学校改革の一環として立ち上げた東大・医進コースの一期生から東大合格が出たときの嬉し涙、何度もチャンスが在りながらとうとう甲子園出場が実現できず流した悔し涙。フィナーレは相撲部の全国制覇の感動の涙。結果はともあれ、子供たちが必死に学習したり練習している姿を見ると「完全燃焼!これでいいのだ」と納得できる。とはいえ、この13年間、校長として特別のパフォーマンスをしたわけではない。毎日、同じ時間に起きて、同じ時間に朝食をとり歯磨きをして、背広姿で家を出る。車に乗って同じ道をほぼ同じ時間をかけて学校に着く。学校が終わると、また同じ道を逆戻りして家に帰ることの繰り返し。片道8キロだから年間300日の勤務とすれば走行距離が6万3千キロになる。私学経営は、公立と違ってスピード感を持って学校改革ができるのが特徴である。しかし、生徒がいてなんぼの世界でもある。入試の時期になると眠れない日が続く。入学式に新入生が一人も来てない夢を見たこともある。

《教師を志したきっかけ》

 話は前後するが、教師になった経緯を振り返ってみたい。私は昭和21年、上益城郡の朝日村(今の山都町)という田舎に生まれた。戦後のドサクサの食糧難時代、街から疎開してきた叔父や叔母たちとの同居生活、農家だから米や野菜は自給自足できるが、タンパク質は卵か塩鰯ぐらいの質素な食生活。保育園もなく小中学校での給食もなかった。テレビがついたのが小学5年生、楽しみはもっぱらラジオ、母の愛好は広澤虎三の浪花節、一緒に何度聞いたことか今でも想い出す。夜は9時になると消灯、この頃から早寝の習慣が身についたようだ。高校になると、農作業の要員として一人前に扱われ、中学の時やっていたバレーも辞めて農作業が部活動になった。当時は、長男が農家の跡継ぎをするのは当たり前の時代、「長男がこんなことでいいのか?」と、後ろめたい気持ちで大学に入学した。「百姓は弟の孝二がする。先生になりたいなら大学に行っていい」と後押ししてくれた親父にはただただ感謝するばかりだ。4年間の学生生活は実に充実していた。今と違って、学生には優しい金銭的制度が在り、授業料が年間12000円、寮費(食費込み)が月額3000円。4年間仕送りゼロ、奨学金とアルバイト代でお釣りが来るくらいゆとりがあった。しかし、四年次は学生紛争で校舎は封鎖され卒業式は中止、しかも卒業証書は行方不明、後日事務室で頂くことになった。

 【敬愛する二人の恩師】既に亡くなられたが、尊敬する2人の先生を紹介したい。「こんな先生になりたい」と教師を志すきっかけとなった先生である。一人は小学5・6年生の担任だったM先生。「命の大切さ」を教えていただいた。子どもたちの貧弱な弁当を見ては“ご飯の友”を振り掛けたり、夜は下宿先に子どもを集めての勉強会をするなど、笑顔の絶えない優しい先生であったが、一度だけこっぴどく叱られた。起立した前の子の椅子を後に引いた。その子は座ろうとしたが、椅子がないのでひっくり返り後頭部を床に打ち付けた。それを見た先生は怒髪天を衝くの形相になり「死んだらどうするんだ。反省しろ!」と、水の入ったバケツを持たされ廊下に1時間立たされた。もう一人は中学1・2年の担任T先生。音楽の先生で、歌うのが苦手だった私に、楽器を持たせて「音楽は歌だけではないよ」と慰めて下さった。「勉強しろ」とは一度も言われたことはないが、誰も「イヤ」と反発できないほど勉強を強いられた。毎朝、英単語と計算問題が黒板にびっしりと書かれており、生徒は朝のSHR前に仕上げなくてはならない。遅刻したら0点。夕刻には採点して返却される。定期考査の日も休みなし。一年中である。英語と数学の基礎・基本を徹底して叩き込まれた。もちろん、クラス全員の成績が向上したことは間違いない。

《エピローグ》

 校長の仕事は、泥臭く汗をかいて、勇気と知恵を振り絞って、子供たちの人生の炎を燃やしてやることしかないと思っている。この13年間、毎月1回ブログを書き続けられたのも素直な子供たちがいたからだし、子供への期待や教育改革や教育事情についての紹介や思い・考えを述べてきた。長い間駄文にお付き合いいただき、しかも、数々のご助言や忠言、励ましを賜ったことに衷心より感謝申し上げます。低頭深謝!ありがとうございました。

 離任はしますが、“文徳は永遠に不滅です”(長嶋監督の言葉を借りて)。文徳学園はこれからも次代を担う若者の成長を精一杯支援し続けることでしょう。4月からは、私も「ドリーム・サポーター」の一員として文徳応援団になります。                   

令和2年3月