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2019年6月25日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第175号
『三つのたいに応える文徳中学校』
学校長 荒木 孝洋
熊日新聞に「わたしを語る」という記事が連載されている。毎回、熊本にご縁のある方々の人生模様が掲載され、記事の端々にその人の生き様とか人生観が滲み出ており啓発される。今回は「熊本外国人妻の会」会長の田代クリスティーナさん(南米アルゼンチン生まれ)の「郷に入らば・・・」のタイトルの記事が掲載されている。18回目の紙面では日本と外国の教育の違いについて述べられていた。共感する部分が多かったので抜粋して紹介する。
わたしが熊本に来た時、上の子は中三でした。いつもまわりの人達から、「受験は大変でしょう。どこの高校を受けるの」という質問をされました。これは子どもを必要以上に不安がらせますし、自信もなくさせます。・・・日本の中学生は塾に通っている人が多いようです。外国には塾はありません。学校があるのに塾があるのは不思議です。部活もちょっと厳しい。週3回くらいの、楽しみながら活動できる部活があれば、もっともっと入部者も増えるのではないでしょうか。子どもは、学校、部活、塾と忙しく、遊んだり、自分で考えたりする時間を十分持てないようです。その上、親や友達と話す時間も少なくなれば、アンバランスな人間が育つのではないでしょうか。外国では中学生は、もっと家族や友達と遊ばせます。・・・勉強はもっと楽しくやるものだと思います。まずは、心豊かに育ってほしいものです。猛勉強する割には、しつけ、生活上のルールやマナーを教えることにはあまり熱心ではないようにも感じます。本などによると、日本の家庭は以前は厳しくしつけていたようですが、最近は学校任せなのでしょうか。全体で言えば、過干渉、あるいは過保護気味かなと。大学の入学式に親が同伴するという話を聞きますが、私の経験からは考えられないことです。・・・以上抜粋して紹介しましたが、ふと思いました。クリスティーナさんが文徳中学を見られたら、「熊本にもこんな教育をしている学校があるのか?」と感動されるのではないだろうかと。 本校は中高一貫の学校ですから高校受験がありません。「どこの高校受けるの?」と悩む必要もありません。授業中心、塾に行く生徒はいません。学校は朝8時の「読書の時間」で始まります。授業指針は『進度より深度』、じっくり・深く学び、わかるまで勉強します。公立中学と違い授業時間が多くとれるから、時には、高校で学ぶ内容まで発展することがありますが、不満を言う生徒はいません。大半の生徒が中3で英検準2級か3級を取得し、中には2級に合格する生徒もいます。また、放課後、週に3回は全員が部活動をし、2回は理解が不十分な生徒に補習をします。家族とふれあう時間を確保するために5時30分には帰途につきます。学ぶ環境も快適です。中庭は全天候型のテニスコート、廊下は教室分くらいの広さがあり、休み時間には生徒の歓声が校長室まで響いてきます。昼食は全員揃って寮の食堂で取ります。弁当持参、作ってもらえない日は寮の350円の定食、和気藹々(あいあい)と実に和やかな雰囲気の時間です。6年後には全員が大学に進学しますが、進路選択の特徴は、「目標設定が早いこと」「受験に失敗しても再チャレンジする生徒が多いこと」です。「腐らず・威張らず・めげず」の精神でチャレンジするから、浪人しても志を持ち続け、毎年、東京大学・慶応大学や医学部などの難関大学や地元熊本大学や崇城大学薬学部へ合格します。文徳中学校は、生徒の三つの「たい」に応える教育活動をします。
②多くの体験や出会いを通して、人間として大きく成長したい
③自分の役割を発見し、自ら行動し、社会の役に立ちたい。
「もっと勉強して自分を伸ばしたい人」、「再チャレンジして自分を変えたい人」大歓迎です。
2019年6月4日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第174号
『なぜ?・どうして?』
学校長 荒木 孝洋
暦の上では芒種(ぼうしゅ)、田植えが終わり、間もなく本格的な梅雨の季節を迎える。降り続く雨と湿気の多いジトジト感に気分がめいるが、紫陽花は一服の清涼剤、この季節によく似合う花だ。鎌倉に明月院、別名、紫陽花寺とも呼ばれるアジサイの名所がある。私が訪れたのは50年前、雨の中、参道を埋め尽くす数万本のアジサイと寺院とのコラボレーションがなんとも言えず素晴らしい。今でも脳裏に焼き付いて離れない。梅雨どきの憂鬱を振り払うように咲く花、青、ピンク、白、どの花も淡く鮮やかに濁りのない色をつける。雨に濡れても、日差しを浴びても、曇の空の下でも、いつも明るく私たちを迎えてくれる。アジサイは土壌の性質によって色が違い、咲いてから散るまでの間に花の色を変えるから、花言葉も「移り気」とか「無情」などとマイナーな言葉が多い。つゆ空を淡く彩るアジサイは健気で可憐な夏待花、熊本にも名所があちことにあるから是非堪能して頂きたい。
ところで、七変化と言われるアジサイ以上に変化が激しいのが、昨今の教育改革、矢継ぎ早な変革に戸惑うばかり。「知育偏重」から「生きる力の育成」と言われ、授業の在り方も「答えを教える教育」から「問いを生む教育」へと、アクティブラーニングへの転換が求められている。しかし、方向転換はそうたやすいことではない。特に、授業で発する「問い」は日常生活の疑問符とは違うから、慎重に扱わないと授業を台無しにしてしまう。例えば、「元号『令和』にはどんな願いが込められているか?」という「問い」があるとする。答えは「???」。願いを込めた主体が誰であるかによって答えは異なるから、答えは「???」となってしまう。『令』を「良い」とか「素晴らしい」と強調する人と、命令のように「命ずる」「掟」と考える人とではどちらも立場の違いを競い合っているだけで、永遠に正解は出ない。もしも、この問いが「新元号『令和』にあなたはどんな願いを込めますか?」だったら、主体が自分だから答えることができるだろう。さらに、「問い」には誘導や前提があるから気をつけなければならないこともある。例えば、「幸せは遠くにあるか?近くにあるか?」という問いには「幸せはどっかにあって捜すもの」という前提があるから、それに気づかなければおかしな論争になってしまう。これからの時代を生きる若者たちには、「問い」を疑い、自省しながら、自らの「問い」を生むことを学び、「問い」に生命を与えていく楽しさを味わって欲しいと願う。この学びこそアクティブラーニングそのものだ。
ところで、人類未踏の超長寿社会の道を日本は突き進んでいる。熊日新聞によると、統計的に死亡者数が最も多い年齢は女性93歳、男性87歳。女性の2人に1人が、男性の4人に1人が90歳まで生きるそうだ。「人生100年」が夢でない時代に突入した。私も古希の坂を越え老いの仲間入り、若い頃と違って、「老後に備えて貯金は幾ら必要か?」と問われるとドキッとする。さらに、「長生きはめでたいか?、恐るべきことか?」などの愚問には答えに窮する。ピンピンコロリを願っても、100まで生きれば足腰は弱り、ヨロヨロ・ドタリの最晩年期が訪れる。生き甲斐探しも強制される世の中、「趣味や友だちがいないと早死にします」などと、不安を増幅させるマスコミの洗脳にも耐えながら、老いの坂を一人で生きていかねばならない。
アジサイは、花期が長く枯れても花弁の形を崩さないことから「辛抱強さ」を表すとも言われている。老いと共に身体の動きが緩慢になっていくが、枯れても花弁の形を崩さないアジサイのように、「辛抱強く」、心だけはワクワク・ピンピンさせながら歩みを続けられたら本望だ。「問い」は好奇心の発露、生きてる証、「なぜ?・どうして?」っと、子どものように「問い」を連発しながら未踏の老いに挑戦したい。