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2017年5月11日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第152号
『急なくして緩ならず』
学校長 荒木 孝洋
スポーツの世界では、優勝すると思われていた選手が惨敗し、逆に、予想だにしなかった選手が優勝することがある。そんな時、敗者は「力んでしまいました」と、勝者は「肩の力を抜くことができ、最高でした」という言葉をよく口にする。理由は何だろう?。一流のスポーツ選手は、あらゆる場面を想定し、繰り返し繰り返し、心身を極限まで痛めつけて練習を重ねる。そうすることで、実際の試合になると肩の力が抜けて練習の成果がでる。しかし、肩の力を抜くことばかり考えて、練習そのものをいい加減にしていたのでは、かえって、試合で肩に力が入りよい結果を残すことができない。
受験もスポーツに似ている。毎年のことだが、模試ではいい点を取っていた生徒が、本番の試験では緊張して力を発揮できず悔しがる場面を目にする。「緊張する、あがる」ということは、準備不足や力量以上の結果を求めることであり、心の問題も含まれる。このことについて、仏教の経典に次のような示唆に富んだ話がある。釈迦が弟子に対して説法する場面である。真面目に一心に修行し、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続けながら、なおも悟りを得ることができず苦悩している弟子に向かって、「お前は琴を学んだことがあるだろう。糸は張ることが急であっても、また緩くても、よい音は出ない。緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである」と釈迦は弟子を諭す。さらに「弦を張るときは、張ることが急(強すぎる)であってはならないからと、最初から緩くすると、残念ながら張り方が中途半端になってよい音は出ない」と。釈迦の教えは心の緩急にも重なる。「緩急よろしき」というのは、「緩(力みがとれる)は作るものではなく、急(ハードな訓練)の後に自然と訪れるものだ」ということだろう。
因みに、成績が向上しない生徒が陥りやすい習慣のひとつが、好きな教科にだけ時間を費やす学習だ。最初から弦を緩く張っているようなものだから、成果は期待できない。試験では何が出るかわからないから、教科書の隅々まで、小さい脚注にも注意を払い学習する必要がある。疑問があれば先生に質問するもよし、憶えられないなら繰り返し繰り返し復習しなければならない。好きなことだけするのは趣味であって学習ではない。好きなことも嫌いなことも勉強するのが学習。嫌いな教科を避けているようでは、いざという時、不安が増幅し力を発揮できない。
そして、勉強する上で、心しなければならないことがもう一つある。学習は難問への挑戦ではなく基礎・基本の習熟にあるということだ。福岡の予備校で教鞭を執られたいた(故)磯野幸先生の言葉を思い出す。「基礎の上に基礎があり、基礎の下に基礎がある」と。ここで言う基礎・基本とは易しい問題を解くということではない。原理・原則に従って知識を系統的に整理することを指している。難問・奇問もヒントは基礎・基本、すべてが教科書に記載してある。東大に合格した松野君(23才)は、高校在学中、躓くと教科書に返ることを繰り返していた。まさに、教科書が最良の参考書だということの証だろう。
ところで、現在のセンター試験は知育偏重であるとして、平成35年度から学力評価テスト(仮称)に変更される。「知識だけでなく考える力を問う」というのが目的である。「今までの学びはパーツを作っていたにすぎない。例えば、中高では、英単語を覚える、方程式を作る、化学反応式を覚えるだけのパーツ作り、その量と質を問うのがセンター試験ということだった。これをもっと発展させて、そのパーツを使って何ができるかを問いたい」との談話だ。国語の記述式問題や英語の外部試験導入が検討されている。全貌が判明するのはもうしばらく先のようだが、「考える力」というのは物作りに似ているから、立派な物を作るには、まずは立派なパーツ(部品)を揃える必要がある。受験もしかり、国語や理科や数学など授業で学ぶ内容がパーツである。しかも、組み立て技術(思考力)まで問うのだから、パーツの精巧さが益々重要になる。
試練を乗り越えるための必要条件は、スポーツも学習も同じ、「急(ハードな訓練)なくして緩(力みがとれる)ならず」の教えを心しておくこと、そして、その訓練は基礎・基本の徹底にあること。文徳学園は、皆さんのひとり一人の夢実現を応援し続けます。生徒諸君の日々の精進を期待する。