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2016年10月26日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第147号
『思いの蓋を開けてみる』
学校長 荒木 孝洋
自分を変えてみようと思うのは若い時ばかりと思っていたが、そうでもない。歳がいくつになっても、時々新しいことに挑戦したいと思うことがある。心に響いた本に出会った時や、映画で感動した時、凄い人に出会ったときなど、そういう思いを持つ瞬間がある。でも、時間が経つと、持続できることとそうでないこととに別れてくる。その違いはどうも思いの蓋が取れているかどうかにあるようだ。「思」という漢字の語源は辞典によると、頭(田)と心の組み合わせだそうだが、「思」から横線と縦線2本からなる蓋(冂)をとると「志」という字が表れる。「思」と「志」の意味は、似てはいるが向かう方向に違いがある気がする。「思」いは、例えば思い出や思い込みなどのように、自分に向けられるものだが、「志」はある目標の達成を目指すという、外に向けられた強い覚悟が含まれている気がする。「勉強して頑張って、世のため人のために役立つ人になろう」という高い志を持って入学した生徒諸君も、日々の授業や部活動に追われていると、気付かぬうちに志に蓋がかぶさって内向きになってしまう。「忙しい」とか「時間が足りない」「キツイ」「面倒くさい」など自分中心に考えるようになるが、内向きでは前に進めない。では、志に蓋が閉まってしまわないようにするにはどうしたらよいのだろうか。キーワードは「凡事徹底」だと思う。
6年前のことだが、沖縄の興南高校の野球部が春夏連覇という偉業を成し遂げて話題になった。監督の我喜屋先生は、その頃のことを次のように述懐されている。着任早々、生徒に徹底させたのは練習だけではなかった。就任したころ、寮生活する生徒は寝ない、起きられない、食べられない、整理整頓できない、挨拶ができないという状態だった。人としての根っこの部分がしかりしていれば野球はうまくなるという信念のもと、「時間厳守、整理整頓、挨拶といった基本を徹底して指導した」と話されている。椅子は両手で出し入れして音をたてず、食器の片付けも音を立てないといった、大人ですらできていない人が多い習慣を身につけさせたのです。もちろん、野球の練習も相当ハードだったと思うが、就任して3年後の2010年には見事春夏連覇を達成されました。似たような話を熊本出身の柔道家山下泰裕さんからも聞いたことがある。世界選手権に向けた合宿中の出来事、大先輩の神永昭夫さんがトイレのスリッパを並べている姿を見て、「これが神永選手の強さの秘訣だ」と思った山下選手は、「稽古だけでは神永選手には勝てない。心と感性にも筋トレが必要だ。まずは、立ち振る舞いを正すこと」と決意した。そして、その年行われた世界選手権で見事優勝しました。想像するに、興南高校野球部も山下選手も技量を磨くためのトレーニングに加えて、日常生活の中で心の筋トレを実行し習慣化したことで、技量が昇華し頂点を極めたのではないかと思う。
ところで、3年生は受験本番、11月になると推薦入試が始まり、1月にはセンター試験を迎える。毎年のことだが、この時期になると成績が急激に伸びてくる生徒がいる。彼や彼女たちに共通することは基礎基本をしっかりと身につけていること、受験に関係ない教科の学習にも手を抜かないことだ。加えて、素直で欠席が少なく掃除も丁寧にするし、整理整頓が上手なことも共通点だ。こんな言葉を聞いたことがある。「心を磨くには、とりあえず、目の前に見える物を磨ききれいにすること。心は、いつも見ているものや、いつも聞こえてくる言葉や喋っている言葉に似てくる。誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続ける事で、平凡の中から生まれる大きな非凡を知ることができる」と。人が見ていようがそうでなかろうが、続けてやるのが凡事徹底。逃げてばかりいると「思」いの蓋は閉じたまま、そのうち魂(心)が消えて残った頭(田)の中には後悔という雑草が生い茂るだけだ。
2016年10月7日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第146号
『砂上の楼閣』
学校長 荒木 孝洋
つい先日のこと、近所の公園に行くと、5・6人の小学生が輪になって「ワア、ワア」と騒いでいる。覗き込むと、どの子も指をピコピコと動かしゲームに熱中している。「今は、子どもの遊びはこれか」と言葉を失う。昔なら想像できないような光景が日常化している。セミをとるでもなし、鬼ごっこするでもなし・・・電子機器の広がりに困惑。「小学生にスマホもパソコンもゲームも不用だ、戸外を走り回れ」と叫びたくなる。この現象は、子どもの世界だけではない。科学技術の急速な進歩によって大人の世界も様変わりした。例えば、プレゼンテーションソフトやプロジェクターは講演や説明会で必須のものとなっている。画像を通してプレゼンテーションできるから、説明しやすく時間も短縮できて効率的だ。準備に時間が必要だが、それをコピーして配布できるから資料を作るのと変わらない。しかも、聞く人にとっても見やすく分かりやすい。
しかし、こんな便利な機器が開発されているのに、学校教育への普及は進んでいない。「授業でなぜ使わないのか?」不思議に思われるかもしれないが、理由は、教師が教育方法の改善や教育機器の利用を苦にしているからではない。一般に講演会などで使われる場合は提示される情報はその段階で完結しているが、学校教育の場合は違う。明日の授業は今日の学習の上に展開する石垣を積むような作業である。全ての生徒にその時々の学習内容を理解させ、知識を確実に定着させなければならない。ビデオを巻き戻すような復習もシバシバ。時には個人指導も必要になる。パソコンで文章を作るようになり「漢字は読めても書く自信がない」という話をよく聞くが、利便さの裏には落とし穴がある。教育機器を使うと説明の能率は上がるが、その分、手作業が減り定着率はむしろ低下する。
佐賀県武雄市では全国に先駆けて、小中学生全員にipadを配付し、自宅学習を前提とした反転学習を開始した。子どもの8割は「楽しい」と感想を述べているが、小学5年生の算数の学力テストの成績は、実施前と比較してもほとんど差がないそうだ。試行されて間もないから断言はできないが、動画は一時的な記憶には残っても、知識の蓄積には繋がりにくいようだ。自分で想像を働かせてノートを作り、手に豆ができるほど書きまくり学習をする、この繰り返しが、むしろ、大切な気がする。授業でグラフィカルな動画を見せるのは効果的だが、知識の定着との両立はそう簡単ではない。私が教師になった50年前にも同じ課題にぶつかっている。当時、オーバーヘッドプロジェクターが登場し、黒板なしでも授業ができる画期的な教具としてもてはやされたが、しばらくすると消滅した。なぜ?、結論は実に平凡だった。「知識は見ることや聞くことよりも、読み・書きによって定着する」ということだった。
子どもたちは新しい知識や情報を入手し、それを咀嚼し自分のものにするまでには時間がかかる。繰り返し繰り返しの試行錯誤の中で知識は定着していく。「反復練習や反復書写といった単純な作業は考える力を育まない」といった主張の教育論もあるが、江戸時代の寺子屋では、読み・書き・計算を繰り返し、明治維新を担った若者たちは『四書・五経』を暗誦している。意味不明の文章でも10回も読めば憶えもするし、時間をかけてジックリ学ぶことで疑問や文中に隠された奥深い意味も理解できるようになる。悪戦苦闘のアクティブな一人芝居を通した学びから自分の意見や感想も湧いてくるに違いない。他人の意見はその後で聞けばよい。最初から人の意見を聞くだけ、あるいは、無定見の思いつきを喋るだけの『アクティブ・ラーニング』はメダカの学校だ。電子機器や欧米の教育方法論を推奨する議論はスマートで華やかだが、それに偏るのは危険である。『読み・書く』の教育活動は『見る・聞く』に比べるとまどろっこしい学びだが、手書きや反復練習などの泥臭い教育実践を軽視していると、学校教育は砂上の楼閣になってしまう。