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2016年07月の記事

法でいじめはなくなるか

2016年7月13日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第143号

 

『法で“いじめ”はなくなるか?』

学校長 荒木 孝洋

 

 いじめ防止対策推進法が制定されて3年が経過した。同法では「いじめを行ってはならない」と定め、「本人がいじめられたと認識した場合は“いじめ”としてカウントする」と書いてあるから、学校では定期的にいじめ調査を行い報告書を作成している。文科省の統計によると、いじめ認知件数は増加傾向にあり、2013年度の18万5800件から翌14年度は18万8072件になった。

 

 ところが、“いじめ”の認定はそう簡単ではない。相手をからかった生徒が「いじめるつもりはなかった」と弁明しても、いじめられた本人がそう感じる場合は「からかい」を“いじめ”として報告している。しかし、生徒間の暴力を「いじめではなく、けんかだ」と本人たちが主張する場合は“いじめ”としてカウントしない場合がある(もちろんケンカであっても指導はするが)。前者は行為を持って“いじめ”と見なし、後者は動機が“いじめ”と異なると解したことになる。文科省調査では、いじめの様態(行為)を基準にして、からかい、金品隠し、仲間外し、暴力などと分類して報告を求めているから、本人からいじめの申告があれば、行為を基準にして報告することになる。

 

 国語辞典には、“いじめ”の定義として「弱い立場の人に言葉・暴力・無視・仲間はずれなどにより精神的肉体的苦痛を加えること」と記してある。つまり、動機と行為がごっちゃまぜになっているから“いじめ”か不法行為かの分類に困るのである。行為は分類できたとしても意識や動機は外形からでは判断しづらいことが多く判定が難しい。従って、いじめ防止対策法案は不法行為との並列ではなく、むしろ「弱い立場の人に精神的肉体的苦痛を加えないこと」という意識の啓発に重きを置いた方がふさわしい気がする。熊本でも子育てについて家庭教育十箇条が示されているし、福島県の会津市では会津藩時代から言い伝えられている『什の掟』を現代版に直した指針が示され「ならぬものはならぬ」と締めくくられている。当然、不法行為については厳しい姿勢が求められる。いじめ意識がない場合でも、からかい、仲間外し、金品隠し、暴力、誹謗中傷など、相手を苦しめる行為を一切禁止することが肝要だと考える。つまり、不仲や対立・怨恨・鬱憤晴らし・遊び心など、動機はともかく、相手を苦しめる行為は許されないという姿勢は別な法律で示すべきだと考える。しかも、「いじめを行ってはならない」という言い方では、いじめ意識がなければ、そうした行為もある程度許されるという誤解を生みかねない。

 

 EU離脱問題では国論を二分したイギリスだが、青少年の育成については国民の意思が統一されており、暗闇にヒントを求めている。夜間の照明時間(営業時間)を制限することで青少年犯罪やいじめが減少したと言われている。ドイツもしかり。随分と以前から土日の店の営業や高速道路運行を制限し、休日は親も子も家庭や教会で過ごすことを推奨している。不夜城のごとく24時間灯りが煌めくことに不自然さを感じない日本国民とは随分と違う。経済成長だけが加速し前に進むことだけを是とする風潮が蔓延すれば、休息や安らぎの場所をなくした青少年たちの心は揺らぐばかり。ラインやSNSで24時間誰かと繋がっていなければ不安に思ってしまう子供たちの世界。啓発と罰則強化で“いじめ”や犯罪をなくそうとする発想には限界がある。追い立てや囲い込みをしばし中断しようではないか。戦国や江戸時代でさえ、為政者は戦乱の最中であっても庶民の安住に目を配り、気配りの政策を忘れなかった。ひとりでじっくり考えたり休息することが素晴らしい人生だと思えるような環境を作っていくのが為政者や大人の責務だ。それが究極の“いじめ防止対策”に思えて仕方がない昨今の日本列島である。